宮崎清武 安井息軒記念館

宮崎初上陸。清武という土地に、安井息軒記念館という場所があることを知った。

失礼ながら聞いたことがなかった。

江戸末期の儒家だという。清武が誇る当時の知識人。最も興味を引かれたのは、当時この地は(失礼に受け取られぬことを願いたいが)、今は想像できないほど”田舎”だったであろうということ。江戸や長崎、大坂とはまったく違う土地柄だったに違いない。

そうした地域で一心不乱に学問に励んで、江戸に上って名声を得たというなら、そのバイタリティだけで目を瞠るものがある。いったいどんな人物だったかと興味が湧いた。

JR清武駅で降りると、 記念館があるらしい場所は、夏の植物が鬱蒼と生い茂る小高い山の上だと判明。地図で見ると駅から近いが、遠回りして山を登らねばならない。猛暑だ。やむなくタクシーを使った。

山の坂道を上りつめて、記念館に到着。



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真夏の清武駅で下車
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入館無料どんどん人が訪ねてくるようになればいいな


◇青年時代

安井息軒は、江戸末期(1799年)に清武(日向国清武郷、今の宮崎県宮崎市清武町)に生まれた。字(あざな)は忠平(ちゅうへい)。

忠平は幼い頃に天然痘にかかり、顔に痘痕(あばた)が残り、右目をほぼ失明。成人後も身の丈五尺に及ばぬ短躰でもあったという。「猿が本を読んでいる」とずいぶんからかわれたようだ。

身分も見た目も財力も、人に張り合えるだけのものはない。だが忠平には学問があった。江戸・京都に学んだ儒者である父親・滄州(そうしゅう)は自宅を開放して子弟の教育に当たっていた。父の手ほどきを受けて、幼い頃から漢学を修めた。

15歳にして、父の蔵書はすべて読破。学問で身を立てることを早々に決意したという。

18歳で寺(中山寺)にこもり、3年にわたり学問修行。途中19歳の時には長崎に遊学。21歳で大坂へ。近くの蔵書家(篠崎小竹)のもとに通って、読書と書写に勤めた。大豆を醤油と塩で煮たものをおかずとして食いつないだ。

ここでも他の学生たちに容姿をからかわれたという。片田舎出身の風貌の冴えないひときわ小柄な青年が、鬱屈と野心を胸に秘めて必死で学んでいた姿が目に浮かぶ。25歳の時に江戸の昌平坂学問所へ。


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写真撮影OKでした 大坂で学問に励んでいた頃の忠平 
行灯に徳利をぶら下げて、就寝時に熱燗をすすって上気した頭を冷まして眠りについた様子


実に勉強ばかりだ。しかも資格や学歴のためという現代人の実利ではなく、生粋の知的探求心・向上心からだ。

ふと思うのだが、偉くなるためとか見栄を張るためといった世俗的動機を一切取り払った時に、それでもなお学ぼうと思える人間は、どれくらいいるのだろうか。

俗な動機がないほうが、純粋に知ること・考えることを喜びにできる気がする。私自身はそうした部類の人間だ。

知の喜びは、知性が発達した人間にとって純粋な喜びではなかろうか。欲目を捨て、単純に知ること・考えることを喜びにした時のほうが、学ぶことが楽しくなる。プレッシャーも打算計算もないからこそ、自由になれる。自由だからこそ、やる気も出る。本来の学びとは、自由を本質とするのではなかろうか。


◇結婚

28歳で清武に帰郷。父・滄州が中心となって、地元・中野に学問所・明教堂(めいきょうどう)を建てることになった。そのタイミングで持ち上がったのが、忠平の見合い話。だが最初に縁談を持ちかけた相手の女性は、「あんなブ男は絶対にイヤ」とすげなく却下。

ところがその妹が、破談を聞いた直後に「わたしでよければ」と嫁入りを申し出た。佐代(さよ)という名の、忠平より13歳年下、まだ15歳の娘で、村人がみな嘆息するほどの器量良し(仏教になじまない形容だが、見とれるほどの美人)。

これだから男女の縁というのは、わからない。忠平のどこに惹かれたかは謎だ。尊敬すべき何かが見えたのかもしれない。

ちなみに見合いを断った姉(豊:とよ)のほうは、もし忠平が美男子だったら即応じていただろうが、見た目で判断するようなごく普通の女性と、学問に打ち込む忠平とは、まったく合わなかっただろう。

また、もし忠平が自分の風貌に負い目を感じ、屈折した人間になっていたら、佐代からも疎まれていたかもしれない。忠平には学問があった。努力も誰にも負けなかった。学問によって矜持を支えていたからこそ、佐代の目にも尊敬すべき男に映った。

面白い因縁だと思う。人間、何か一つ打ち込むことがあり、自分を偽らなければ、確率は決して高くはなかろうが、生涯に一人くらいは相愛の相手に巡りあえるということかもしれない。忠平のまっすぐな生き方こそが、その生涯にわたる幸運を招き寄せたということだろうか。


◇教育家としての息軒

かくして28歳で所帯を持った忠平は、息軒という号のもと、父と一緒に明教堂で教え、32歳のときに飫肥城下に再建された藩校・振徳堂に移って、父とともに教鞭をとった。

当時の門生によれば、「滄州先生、人を教ゆるに厳ならず。門人これを敬すること厳父のごとし。清瀧(息軒)先生は厳確なれども、門人これを親(したし)うこと慈母のごとし」(若山甲藏『安井息軒先生』)

息軒(忠平)は、風貌こそ厳めしいが、愛嬌も漂わせていたらしい。なるほどそうした目で肖像画を見直せば、想像できなくもない。すごい人というより、愛される人でもあったかもしれない。

ちなみにある漁師の男が、息軒に面会した時に、佐代の姿を見て感心し、「先生のような器量よろしくない男に嫁ぐとは、先生以上に学のある方なのですね」というようなことを言ったら、息軒は手を叩いて笑ったという(平部嶠南『日向纂記』)

息軒は自身の容姿を受け入れていた。だから笑えたし、『岡の小町」と噂されるほどの美女とも気後れすることなく添い遂げることができた。息軒は剛情だが、素直なところもあった。本当の人柄が見える気がする。

ちなみに外交官の小村寿太郎は、この振徳堂にて、 息軒の弟子・小倉処平に学んでいる。学問という種は実に面白いもので、意外なところに実を結ぶ。学ぶ者の心が土であり、教える者の心が種ということなのだ。

だが父・滄州が亡くなった翌年に、息軒は江戸に上がっている。38歳の時だ。そもそも息軒の博識と先取性、および父・滄州に遺言代わりに気をつけるようにと諫められたその頑固一徹の気性が、保守的な藩政と相容れるはずもなかった。

父の死は、早く江戸に出よという合図に聞こえたのかもしれない。


◇私塾の開設

江戸に上がって始めたのが、私塾「三計塾」だ (1841年)。

三計とは「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮(若い頃)にあり」。若いうちにこそ将来にわたる志(計画)を立て、無駄なく過ごすなという意味らしい。

師に当たる松崎慊堂(まつざきこうどう)が息軒を高く評価していたこともあり、儒者界隈で息軒はたちまち知られる存在となった。水戸斉昭のブレーンである藤田東湖とも交流し、政治に意見する機会も増えてきた。

黒船来航(1853年)に動揺した幕府は、朱子学以外にも智慧を求め、古い漢学(漢・唐代の古典)に立つ息軒に白羽の矢を立てた。最高学府・昌平坂学問所の「幕府儒官」に任命したのだ(息軒63歳の時)。塩谷宕陰(しおのやとういん)・芳野金陵(よしのきんりょう)と並ぶ「文久三博士」。在野の儒者として上り詰めうる頂点に達したといってよい。

三計塾も盛況だったようだ。開塾してすぐ江戸の儒者界隈で知られるところとなり、有志の若者たちが続々と集まってきた。借家から通う地方の学生も多く、最終的には二千人を超える若者を送り出したという。

知られるところでは、外交官の陸奥宗光、政治家の谷干城、井上毅(1843-1895)など。息軒は、たしかに時代に影響を与えていたのだ。

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陸奥宗光(むつ むねみつ)は、紀州藩を脱藩したほどの反骨の若者だったが、江戸に上って三計塾に入門。そのプライドの高さは、周囲の門弟からは嫌われていたそうだが、息軒の博識と真剣さに感服して、生涯恩師として敬い続けたという。のちにカミソリ大臣と呼ばれ、欧米列強との不平等条約を改正する先陣を切った。

なお、関税自主権の完全回復を成し遂げ、日露戦争の終結や日英同盟締結を果たした外務大臣・小村寿太郎が、息軒の教え子から学んだことは、先に出てきたとおりだ。息軒の影響力はたしかに深大だったのだ。

小野梓(おの あずさ)は、土佐(高知県)出身で、後に大隈重信を支えて明治政府の役人となり、東京専門学校(のちの早稲田大学)の開校に尽力した。現実社会をよくするための学問と、人材を育てるための教育という理念は、息軒から学んだものだという。

谷干城(たに たてき)は、西南戦争の際に、熊本城司令官として西郷隆盛率いる薩摩軍と対峙した。息軒を生涯の師と仰ぎ、塾卒後も息軒にしばしば手紙を送り指導を乞うた。のちに政府の要人(農商務大臣 )となった谷は、晩年の息軒の生活支援や著作の出版・復刻に力を注いだという。

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息軒の思想は、観念的な議論とは真逆で、徹底した実用・実学を志向していた。歴史や経書を学ぶのは「現実の社会問題を解決し、民を救うため(経世済民)」 。江戸から郷里・飫肥(おび)藩へ、養蚕技術や牛痘(天然痘の予防接種)をいち早く紹介し、導入させもした。

頭でっかちな若者には、厳しく叱責した。ある門弟(幕臣にして大政奉還を推進した佐々木高行)は、息軒先生に叱られて腹が立って仕方なかったと回顧している)。「口下手で短気、𠮟りつけるような講義だった」と語る者もいる(東大教授をつとめた漢学者・重野安つぐ)。

息軒の気性の激しさは、父親・滄州に気をつけなさいと臨終間際で戒められたほどだというから、青年にとって相当おっかない先生だっただろう。その一方で愛情豊かで、地方から出てきた若者たちを、三計塾の寮に迎え入れて面倒を見たともいう。

塾生同士で教材を読み解いて議論する「会読(かいどく)」を勧めた。塾生の意見を頭ごなしに否定せずに、その思索と議論を歓迎したという。厳しくはあったが、冷淡ではなかった。

息軒の若者に対する姿勢は、一貫していた。身分・外見などの体裁を問わない。世間の栄誉をみずからは好まない。

三計塾で学んだ者は、自分の利益ではなく故郷や国家に還元しなければならない。自分の学と才を、どのように天下・民のために使うつもりかと問い続けたという。

このあたりの高い志と一流の知識と影響力が、息軒という器の中に併存していた。こうした人間が各地で塾を開き、寺子屋を開いて、若い世代の薫陶に当たっていたのが、江戸末期という時代だった。


◇息軒の不遇

だが、息軒の年譜をたどって見えてくるのは、どうにも時代の波に乗り切れない不器用さ、というか、そもそも生まれる時期が少し早すぎたかと思うほどの不遇さである。

江戸の知識人にも知られるようになり、三計塾が評判となり、ようやく幕府に一目置かれるところまで進みながら、飫肥潘以上に石高が大きな土地(奥州塙)の代官に任じられたことを、高齢(65歳)を理由に辞退。 

幕府の儒官に上り詰めた途端に、黒船来航を受けて幕府の権威が揺らぎ、戊辰戦争(1868年)に巻き込まれないようにと、三計塾をたたんで、一時期、江戸から疎開。

明治に入って、勝海舟・山岡鉄舟が直接訪れ、天皇の侍講に推挙したが、これも病気を理由に断っている。なお地べたを張って生きてきた息軒だ。その目には、明治政府に仕える者たちに、器用と打算を感じ取っていた可能性はある。

明治政府が、支配者としての面目を露わにし始めたのは、そのあとだ。廃藩置県、廃仏毀釈、学制公布(1872年)。せっかく彦根藩主の求めに応じて、江戸に戻って三計塾を再開したのに、藩は廃止され、官費学生が私塾に通うことを禁じられた。学生たちは潮が引くようにいなくなった。

老いとともに身も縮み、左目の視力もほぼ失い、足腰も立たなくなった最晩年の息軒。

この時すでに妻・佐代は亡くなっていた。長男・棟蔵(とうぞう) は、息軒が手塩にかけて学問を仕込んだが、22歳で病死。次男の 謙助(けんすけ)は、28歳で自殺していた。

息軒の目に見えたものは、何だったか。虚無の闇であったか。ほぼ死んだも同然の闇。自分は何のために生きている? 自分はなんのために生きてきた?

瓦全(がぜん)――当時の正月に、息軒が書き初めた言葉だ。瓦礫のようにただ息をしている骸(むくろ)。実感だったかもしれない。

なんともせつない。息軒はたしかに生きていた。江戸から明治への端境期に、大きな影響を与えていたのだ。
 
だが今はほとんどその名を聞かない。その見えなくなった今が、何かこの国がとてつもなく大きなものを見落としていることの証左のような気がしてならない。


◇息軒が無名の理由

息軒の学者・思想家・教育家としての業績は、どのように評価されるべきだろう。あまり現代に知られていない理由は、その著書がほぼすべて難解な漢文で書かれているからなのか、仮に現代の言葉に訳せば、さほど評価できるものが乏しいからなのか、それ以外に理由があるのか。

息軒の著した論考(いわゆる考証学)を読んだ清(中国)の学者(張之洞ら) は、その内容の緻密さを称え、「日本随一の儒者」と評したという。息軒の論文(『左伝輯釋(さでんしゅうせき)』や『論語集説』などの経書研究)は、現地で翻刻(出版) されたともいう。

当時の中国の学術界は、世辞を好まず、矛盾や欠落を厳しく突く文献批判を基本としていた。まして中国古典の考証において遅れているはずの日本の儒家を、根拠もなく褒める理由もなかったはずだ。また、息軒のキリスト教への批判的分析を書いた『弁妄』は、イギリスで翻訳出版されてもいる。

つまり評価されるべきことは多くあった様子である。だが無名。いったいどうした理由からだろうか。

ひとつは、その著作のほぼすべてが、漢文で書かれており、いまだに現代語訳が進んでいないことが挙げられる。単純に、まだ理解されていないのである。あくまで在野の思想家・教育家であり、歴史ドラマの表舞台に出てくるような役回りではなかったことも挙げられようか。


対照的なのが、息軒に36年後(おく)れて生まれた福澤諭吉だ。同じ九州の出身で、貧しい藩士のもとに生まれたことは、共通している。だが諭吉は緒方洪庵の適塾に学び、オランダ語・英語に通じて、アメリカ、ヨーロッパを視察。帰国後に著わした『学問ノススメ』は300万部を超えるベストセラーに。のちに慶應義塾大学を創設した。

経歴の華やかさだけではない。若い頃には剣術を収め、当時の日本人の平均身長を15センチ上回る長身に、彫りの深い顔立ちだった。今でいう超イケメンのハイスペック男子にして時代の寵児。すくすくと伸びた明るい大樹のような存在感。息軒とは対照的だ。

息軒は、時代の波に乗れなかった。ちょうど古い波と新たな波の狭間に生まれ落ちた印象がなくはない。

そもそも息軒の思想を支えた古学そのものが、幕府が重用した朱子学と相反するものだった。断髪した門弟との面会を謝絶するほどの西欧嫌いでもあったという。

ことごとく主流から外れていた。息軒はアウトローとして生きる宿命みたいなものを背負わされていたかもしれない。これはよほど努力して発掘しない限り、市井の人々の視界に入ることはないだろう。まずは息軒の言葉が現代語で読めるようなればと思う。


◇息軒の魅力

もうひとつ、個人的にもったいないと思うことは、安井息軒の業績、その人生の社会的意味を探るうえで、息軒の ”表” から見た業績・著作にどうしても目が行ってしまうことだ。

これは、平賀源内や福澤諭吉の記念館を訪ねた時にも感じたことだが、「地元の先生」として持ち上げ「歴史に名を遺した偉人」として見上げてしまうと、結果的に、本人の凄み、哀しみなどの人間的魅力が見えなくなってしまう。

息軒の魅力と凄さは、儒学者としての歴史的評価ではなく、その生きざまを通して見るべきような気がする。清武という土地に生まれ育ちながら、学問をを積み重ね、都に出て私塾を営み、その知識・見識が世間にも幕府にも認められた――その上昇ぶりと野生の生き方そのものが、魅力的であり、評価されるべき点なのだ。

完全な自立自尊。これほど自力で学び、人生を切り拓き、人に伝える、人を育てるという活動を、己自身の自然な発露として形にして見せた人というのは、稀少な存在だ。

そのあたりを掘り下げれば、息軒の人間としての魅力が、もっと伝わってくるように思える。


◇息軒の家族

息軒の家族が、これまた興味深かった。15歳で息軒に嫁いだ佐代は、26歳の若さで故郷・清武を去り、小さな子供たちを抱えて江戸へ。夫は朝から晩まで難解な書籍を読み込み、執筆に励み、客人をもてなし、三計塾創立後は、押し寄せる若者たちの面倒を見た。そのすべてを、息軒のすぐそばで、陰から支え続けたのが、佐代夫人だった。

長女・須磨子が父母について江戸に出てきたのは、まだ11歳の頃。言葉が通じず、何も変えずにとぼとぼと帰った須磨子に、母・佐代は「父上、ご出世は疑いなし」と言ったという(若山甲蔵『安井息軒先生』)。

佐代にとって、夫・息軒は世に認められるに違いない「先生」でもあったのだろう。終生、息軒を仰ぎ見てけなげに尽くした佐代は、苦労が祟ったか、正月明けに50歳で息を引き取った。

長男、次男、そして妻の佐代が亡くなった時の息軒の落胆ぶりは、凄まじいものだったという。父として、夫として、もう少しいたわりを向けていたらと悔やんだかどうか。

ちなみに佐代が亡くなって3年後に、息軒は子連れの女性(槇子・47歳)と再婚している。よくできた妻だと褒める手紙を、清武の地に戻っていた長女・須磨子に送っている。他方、佐代についての言及はほとんど残されていない。

佐代を失って、多少は妻のありがたみがわかるようになったのかもしれない。遅きに失した感があるが。


◇遠い星のような

佐代については、息軒の出世を誰よりも強く望みながら、報われないうちに亡くなったと見る人もいる(息軒が昌平坂学問所の儒官に任命されたのは、佐代が正月に死んだ年の暮れだった)。

他方、森鴎外のように、夫にひたすら尽くして人生を全うした女性として、格別の思慕(思い入れ)をもって振り返る人もいる。

だが、夫に尽くして消えていった女性というのは、当時おそらく大勢いたのである。そういう時代だった。嫁いだ先に、愚痴もこぼさず仕え続ける。そうした女性は、佐代に限らずたくさんいた。

佐代がひときわ魅力的に映るのは、そうした時代における妻の役目を果たしながら、その内心に、夫への尊敬や愛情といった、人間らしい動機がほの見えることだ。

実際には、その苦労が報われることはなかったし、生涯なんの贅沢も余裕も許されなかった。だが佐代はおそらく、そうした苦労を感じ取ることが、ほとんどなかったのではあるまいか。

質素な暮らしの中で、はたから見れば苦労ばかりを背負いながらも、心は満たされている。そうした素直な心性を持っていた。学によるものではなく、その人がその人であるがゆえの等身大の高潔さと聡明さだ。そうした自然の輝きこそが、佐代の魅力だったような気がする。

なんだか遠い星のように見える。目に見えるが、手は届かない。佐代は、もはや歴史の中の人であって、誰がどれほど想像を尽くしても、その姿を間近に見ることはできない。だがその絶望的に遠い距離を隔て、それでもなお伝わってくる美しさこそが、佐代の存在をひときわ輝かせている本質のような気がする。


安井息軒という人が、この宮崎清武の地にいた。その生きざまも、身の回りの人たちも、つい引き込まれざるをえないほどの魅力を放っていた。

なお、息軒の孫(長女・須磨子の息子)であり安井家の家名を継いだ安井小太郎氏の子孫は、現代に生きておられるそうだ。少し救われるというか、息軒先生が報われた気がするのは不思議な感慨だ。

いや、さまざまなことを考えさせられた。記念館を出て、息軒の生家でいっときを過ごして、余韻にひたりながら、清武中野の山を歩いて降りていった。



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安井息軒の生家

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安井息軒の肖像画 


2026年8月16日



北九州小倉 松本清張と同郷の作家たち

翌朝は歩いて駅まで。夜とは表情が一変するさわやかな朝の風情も楽しい。

西小倉駅で下車。今日のお目当ては、松本清張記念館。館の入り口には、清張先生の全作品の展示が。長短編あわせて千点を越えるとか。
 

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いや、すごい数。ちなみに私の本を並べたとしたら、すみっこの小さな一角に収まってしまう(※ここだけ撮影可能スポットでしたw)。


清張の作品は、小説、ノンフィクション、事件簿、評伝、古代史、現代史と幅広い。この人の場合は、人間の醜悪や矛盾を、ニュートラルな目で観察し、洞察して、それを一つの物語として再構築できる。

私なら、人間の性(さが)を直視する前に虚しさを覚えて目をそらしてしまう。人の闇を暴いたところで、人間は変わらないし救われない、と結論を急いでしまうのだ。

清張は人間という種を知り尽くしたかったのだろうか。なぜそこまで人間に興味を向けたかは、展示物を追っても今一つ見えてこなかった。幼い頃におそらくごく小さなきっかけがあったのだろうと思うが、はて清張の自伝などには、そのあたりのヒントが語られているのだろうか。

いささか哀しかったのは、これだけの知と表現の巨人がいるにもかかわらず、今の時代に清張の作品を愛する人たちは、年々減り続けているだろうことだ。清張が抉り出そうとした戦後日本や人間の闇というものを、清張の作品を通して丹念にたどろうとしている読者は決して多くないように思うが、どうなのだろう。

清張と同年代でもない人々にとって、戦後の昭和史は、もはや遠い歴史に過ぎなかったりする。今の時代は娯楽はいくらでもあるし、世間は刻々と変わっていくから、清張の作品が顧みられる機会は、今後も着実に減っていくだろう。化石と化して、やがて風化していく。

そのことが哀しく、虚しい――そうか、こうした思いが、過去の私の足を止めたものだったのだ。どうせ何をしても無駄ではないか、という思いだ。


清張は40を過ぎてデビューして、82歳になるまで人間を抉りぬく営みを続けた。鬼神とも喩えうる熱量。

原動力は本人いわく「疑い」であり「底辺から見上げること」だそうだ。出家のひねくれ根性とも似たところはあるかもしれない。

杉並・高井戸に一軒家を構えて、膨大な資料を所蔵していた。その書斎の一部が復元されていたが、途方もない蔵書量。

自分と同等の熱量を編集者にも求めたとか。編集者としては戦々恐々だったろうが、稀代の知の巨人とまみえることができる僥倖も感じていたことに間違いない。


清張の人生の前半40年にわたる貧困と下積み時代は、本人にとっては「濁った暗い半生」だったという。その暗い蓄積があったからこそ、後半生の鬼のような執筆活動が可能になった。自身が体験した混沌を言葉によって濾過していったのだ。

なんとなくわかる気もしなくはない。みずからが体験した混沌や葛藤や矛盾や苦悩というのは、言葉を通して外に出すことで、浄化されていくのである。過去が心の外に排出され、過去の自分が客観的な他者になっていく。心がとらわれなくなる。書くことで、人生全体にわたるカタルシスを得るのである(『ブッダを探して』を通して、微小な規模で自分も体験している)。

いや、凄まじい人生。持て余すほどの熱量を調査と思索と執筆に全力で注ぎこんだからこその巨人ぶり。このあたりは司馬遼太郎や大宅壮一にも通じる。

彼らのような創作の巨人は、もう出てこないかもしれない。



北九州市立文学館にも寄ってみた。この土地出身の作家を紹介展示しているのだが、その数がすごい。

個人的に興味を引かれたのは、自作の紙芝居を子供たちに見せる活動をしていた阿南哲朗という作家。

子供への読み聞かせもいいかもしれない。高校生であれば、硬派の評論文を感情込めて力づよく朗読するのもいいかも。音抜きの外国語が絶対に身につかないように、抽象的な文章も意志がこもった朗読を経ないと、心に入っていかないだろうと思う。語学・国語が苦手なまま終わる人というのは、音を通すという体験を欠いている可能性がある。



北九州という小さな土地に、こんなに多くの作家がいたとは。交易盛んな国際都市であり、多くの異なる他者が入り混じっていた。そこに言葉があれば、これほどの思索と表現が生まれてくる。

この土地で生まれた創作すべてを包摂する文化とでもいうべき現象の全体が、まるごと人間の営みが作り出す芸術作品だ。圧巻の土地。

夜に新門司駅からバスで港へ。フェリーに乗って大阪まで。翌日は奈良入り。


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明石海峡の朝焼け



2025年11月15日






大分築城 暗がりをこよなく愛す

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興道の里2025 No.156
【日本全国行脚・秋】
大分築城 暗がりをこよなく愛す

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映画の後は大分の街をてくてく歩く。西側に広い森があるらしいが、歩ける距離でもなさそうなので、駅前の芝生広場の陽光を堪能することにした。

世界は平和が一番。それだけで、あとは宝石以上の美しい自然が彩りを与えてくれる。おかしなことをして調和を崩しているのは人間だけ。つくづく病気の生き物だ。

土曜ということで宿が見つからず。唯一残っていた築城という小さな駅近くの宿を予約。

駅からずいぶん歩かねばならぬため、運よく残っていたらしい。だが降り立ってみると、駅から遠いことがかえって出家ごころを愛する性分に合っていることが判明した。


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大分県・築城(ついき)駅
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駅を出て、誰もいない道を歩く ああ幸せ(笑)

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誰もいない踏切 ああ楽しい(笑)


見知らぬ夜道を妖しい恍惚を感じながら歩き続ける。踏切を渡り、国道沿いをひたすら歩いて、はて道を間違えたかと思ったあたりで、ようやく到着。

宿は駅近がよいかと思っていたが、そうではなかった。むしろかなり歩く距離のほうが、途中の景色を楽しめると今回学んだ。「誰もいないところに自分一人」というシチュエーションに胸が躍るのは、やはりこの身は夜行性ということなのだろう。

夜道を歩きながら感じたが、出家にとって娑婆の世界は、あまりに混沌としている。自我猛々しくておっかなすぎる場所である。だからできることなら、誰にも見つからない場所で、ひっそりこっそりと息を潜めて暮らしたいものである。

出家という種族は、昆虫にたとえればダンゴ虫であり、架空のキャラクターにたとえれば、ヴァンパイアみたいなものかもしれない。いや、決して生き血を吸わねば生きていけないということではなく(笑)、昼間より夜の暗闇を好み、人目がつかないところで半永久的に生きていくところが、なんとなく似ているように思えなくもない。

出家の場合は、肉体的にはもちろん老いるわけだが、精神的にはあまり歳を取らない。そもそも世俗から遊離したところがあるし、妄想しないから老いた気がしない。

ヴァンパイアといえば、真っ先に思い浮かんだのは、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のトム様とブラピ様なのだが、喩えとしてさえ並べるのはあまりに恐れ多いので、

自分のキャラに近い夜行性動物は?と宿で調べてみたら、

フクロウ、タヌキ、キーウィ、ツチブタあたりが出てきた。ツチブタ・・。

そういえば、見た目がレッサーパンダに似ているとかつて言っていた人がいたのを思い出したので調べてみると、

レッサーパンダも夜行性で、明け方・夕方に活発になるらしいが、環境に合わせて昼間に活動することもあるらしい。なるほど近いかもしれない。
 
(自分寄せの話題すみません) 


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2025年11月15日
 
 
 

大分臼杵 摩崖仏と里山


レンタル自転車で次に向かったのは、臼杵摩崖仏群。

バス利用も考えたが、平坦な道だというので、チャリで行ってみることにした。こういうところで運動しないと筋力が衰えていく。というかバス利用を考えてしまった時点で、心が若干衰えているのかもしれない。

結果的に正解だった。広い国道沿いを走っただけだが、それでも地元のお店に民家に、秋色づいた野山を眺めることができた。ちょうど快晴で秋の空気が澄明で心地よい。

石仏も見ごたえがあった。平安から鎌倉末期にかけて、京都・奈良の一級の仏師たちがやってきて、寺の造立にあわせて掘ったそうだ。

想像するのは、仏師の一人として旅して、石仏彫像に入れ込むもうひとつの人生。九条家や天台宗僧侶としての人生ではないのだ。快作をめざしてノミを振るう自分が目に浮かぶ(笑)。


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たしかに造りが精巧だ。ミャンマーにも石仏はたくさんあるが、造形の妙はやはり大陸由来の日本の石仏のほうがあるような気はする。

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私が仏師なら「あの裾のカーブがうまくいかなかったんだよな~」なんてこぼしたりしたかもしれないが、誰も目に留めない。そんなものだよね、うん。

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美仏内閣なるお遊びも。大日如来が首相というのは、やはり天台宗のお寺だからということか(マニアックな感想?)。


最も眼福潤ったのは、敷地内の公園だ。赤いコスモスが可憐に咲いていた。地元の方々の心づくしが身に沁みて伝わってきた。

見惚れてしまうほどの絵画的な美しさだ。ほどよく田んぼと民家がちらばっていて、里山の一部を作っている。この風景を見るだけでも、来た甲斐がありすぎるほどあった。


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いやせつなく美しい。こんな世界に生きている至福には感謝するしかない。


臼杵城址をまわって本日の締め。もう一度訪れたい。次は春か。

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臼杵城跡から。あの窓の一つ一つに人生がある。 
みんなどんな日常を生きているのかな、生きてきたのかな。


*商店街の中にフリースクールがあった。いつかお声をかけてください。


2025年11月14日




熊本阿蘇・大分豊後竹田


翌朝は中津から特急に乗って熊本阿蘇へ。法事のため。

どの場所での法事も同じことだが、やはりその土地や一族の業というものを感じ取って、その業を断ち切るための理解というものを明らかにすることが、基本になる。

“見える”ものは、伝えることもあるし、今後の因縁に委ねようということで秘して語らないこともある。

業の力が強いと、その影響は一代では終わらず、次の代、さらに子々孫々へと続いていくこともある。

だが救いでもあるのは、人間というのは凄まじく生命力が強くて、その未来に向かう力は、負の業の力にも打ち勝ちうるほどに強力であることも多いことだ。

つまりは、負と正、陰と陽、悪と善というのは、どの時代・どの場所・どの一族においても、せめぎ合っているものだが、後者のほうが勝っていくことも、さほど珍しくない確率で起こるということだ。

苦しみをもたらすものが悪の業だとしたら、幸福をもたらすものが、善の業である。

どうした場合に善の業が育っていくかといえば、代表的なものを挙げれば、子の幸せを願う親の純粋な愛情であり、悪を繰り返さないための忍耐や自己犠牲だろうかと思う。

「子供にだけは苦しんでほしくない」
「この業を子に受け継がせたくない」
「この苦しみは私の代で終わらせる」

といった強い思いを持てる誰かが出てきたときに、悪の業を善の業が上回る可能性が出てくる。

悪の業は根強いが、それでも誰かの愛情や犠牲が間に入ることで、人柱とでもいおうか、その人が悪業を抱えたまま土に帰ってくれたことで、そのうえに善の業が生命を宿らせることがある。

未来に生きる人たちは、かつて自分たちの一族に“人柱”があったことなど想像しないかもしれない。だが、その人柱があったおかげで、その一族に幸せが宿る可能性が生まれるのである。



悪の業を長引かせる原因の一つとなりうるのは、その業を持った人間に執着することによって、負の業を繰り返す可能性を宿してしまうことだ。

その可能性は、自分の人生に出てくるとは限らない。別の部分に、想像もしなかった意外な場面で、不意に現れることがある。悪の業が未来への可能性を枯らし始めるのだ。

最も正しい選択は、悪は悪として冷徹に理解して、斬って捨てることだ。親として子としての情は要らない。

肉親だからこそ執着して、さまざまな“夢”を見てしまうものだが、その夢こそが、悪を悪として見抜く心の眼を濁らせて、代わりに悪の業が生き延びる土壌を育ててしまうこともある。

難しいことは百も承知しているが、最も望ましいのは、「親を親として見ない」態度だ。ただの人として見る。そもそも血のつながりなど、生物学的も存在しないのだから(母親の血が胎児に流れ込むわけではないのだから)、親だった人間をあえて他人と見て、一切夢を見ず、執着せず、自分がその人の子であるという思い(妄想)をも切って捨てて、ただの人間として見ることが、正解なのである。

いわば、善も悪も、いったん自分の外に置いてしまうこと。そのことで自分が自由になれる。業さえも選べるようになるのである(かなり難易度の高い話ではあるが)。

悪は悪。だが遠い悪であって、今の自分には関係がない――それくらいに思える境地に立てるならば、あとは前を向いて生きていくだけで、悪の業が希薄化していく可能性も出てくる。

くれぐれも執着しないことだ。

今回出会った土地の人が、「私は、この土地が好きなんです」と言っていた。これ以上ない正解だ。

その土地が自分にとって最も愛おしいと思えるなら、その土地に骨をうずめる価値はある。それだけで十分だ。

結局は、その土地・その家でどんな時間を過ごすかは、まったく新しい選択であり、創造であり、挑戦ということになる。過去も、負の業も、自分が執着さえしなければ、力を持たない。

求められるのは、執着を断ち切る決意と、執着を見極める心の眼(智慧)ではあるが、その部分は、謹んで学んでゆかれよ、と思う。

豊後竹田に一泊。この土地は、秘境を思わせる不思議な雰囲気に包まれている。車や鉄道が入っていない時代には、まさに幽玄の土地だったように思う。宿も温泉もよし。



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早朝に中津から阿蘇へ どこか懐かしいこの風景が未来にも続くことを願う

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豊後竹田の風景 せせらぎが山肌を縫って人家の足元から流れ出てくる この表情の豊かさが面白い

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駅の背に滝が流れ落ちる 独特の景観

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温泉でひと息 たいそうよき湯であった 極楽、極楽



2025年11月13日





大分中津 福沢諭吉記念館

門司から中津に向かう。車内で、通学途中の高校生たちと一緒になる。9割方はスマホ、1割は参考書。スマホは常習化した感がある。

スマホのない空白の時間を体験している世代としては、ほんとにこれでいいのかなという疑問もなくはないのだが、

片や参考書を眺めている殊勝な高校生たちの姿を見ると、中身のなさそうな勉強に時間を注いでも、あまり実のあることはアタマに残らないだろうし、未来の足しになるとも思えない。

要するに、スマホも参考書も、正直意味がないのではと思えてしまう。

とはいえ、スマホをダラダラ使っても、知能は育たないであろうから、こうした時間を延々と過ごして脳が溶けていった(思考力が劣化していった)先に、どんな人生が、そしてどんな社会が待っているのかは、今の時点ではわからない。せめて実のある時間の過ごし方について提案するくらいのところまでは、やってみたいものだと思う。



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中津駅を降りると、福沢諭吉先生の言葉が
使えない学問には意味がないということを仰っておられます

 
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福沢諭吉旧居 移築したそうです


下級藩士に当たる諭吉の父は、米を管理する役人として大阪に出向していたが、諭吉が2歳の時に亡くなった。その後、母と兄と3人の姉一緒に中津に戻ったが、身分が邪魔したこともあって、藩校にも行けなかった。

後家さんとなった母のお順も、何かと噂を立てられたかもしれない。だが道を歩く浮浪者のような女性を呼び寄せて、頭の虱を取ってあげたうえに、取らせてもらったお礼にと握り飯をふるまったそうだ。

無理解な田舎の人々に囲まれながらも、善良な人間でありつづけた。これこそ諭吉の独立自尊の原点かも?

諭吉は、周囲の大人たちの偏見や狭小さに、さぞ悔しい思いをしたのろう。だからこそ理にかなった学問に憧れたし、のちにすべての人が平等にして自由だという近代の思想を、自分の言葉として語ることができたのかもしれない。

諭吉は家父長制にも批判的で、女性の地位向上にも理解を示した。弱者の視点を持つ、時代の先を行く人、本当の頭の良さを持った人だったと見た。



諭吉が腐ることなく知力を伸ばせたのは、地元で照山先生(白石照山)に出会えたことが大きかったらしい。照山先生は二十代後半に江戸に出て、昌平黌(昌平坂学問所)で学び、29歳で中津に戻って私塾を開いた。30代からは藩校・郷校で教えて、明治の学制移行後は、57歳にして再び私塾を開いている。

照山先生も下級藩士で反骨の人。藩上層部にモノ申して追放されたとか。諭吉に通じる部分かもしれない)。

出会った時は、諭吉は14歳、照山先生34歳(若い)。多感な年頃に諭吉が触れた「学問」は衝撃だったろう。

察するに当時の教育というのは、教える側の情熱と知識と、いかに時代を切り開いていくかという思考が備わっていた気がする。知識を得て、考えて、行動に移す。

私塾を開くのも、政治の世界に打って出るのも、当時は一本の線の上にあった。思想という線である。


思想に目覚めた諭吉は、19歳で長崎に出向いて蘭学と出会い、さらに大阪・適塾に赴いて、緒方洪庵のもとで蘭学を掘り下げて、25歳でアメリカへ。広大なユーラシア大陸も旅している。どんな景色を各地で見ただろうか。

記念館に諭吉のノートが展示されていたが、文字も図もきわめて緻密。諭吉は 『蘭学事始』 以外にも多くの書物を筆写して学んだそうだが、「書き写す」ことは集中と銘記(記憶)に直結する。書いて覚えるという基本の積み重ねが、諭吉の知力を育てたのだろう(緻密に書く時間を教室でも設定することだ。緻密に、ていねいに、心を尽くして書き写す。まずは5分)。

31歳で出した『西洋事情』が15万部のベストセラー。当時の人口は4000万人弱だから、今の感覚でいえば50万部くらいの大ベストセラーか。33歳で復活させた私塾が、のちに慶応時義塾大学になる。37歳で著した『学問ノススメ』は、300万部の超ベストセラー。社会現象といえるスケール。

福沢諭吉を主役にすえれば、壮大な大河ドラマが作れそうなのに、まだ実現していないという。諭吉の人間性・感情面を掘り起こしきれていないことも、一因かもしれない。


歴史上の人物には、その魅力が埋もれたままの人がまだ相当数残っているのではないか。人間として、想像を尽くして、その人物の内面に迫らないと、本当の姿は見えてこない。

その人の感情、人格、感性、陰影、反骨といった個性こそが思想を作る。本人には突き動かされるエネルギーがあったはずだが、時を経て歴史上の人物として眺めるだけの後代の人たちは、本人が成し遂げた形だけを見て評価を下す。

あれやこれやをやった偉い人という位置づけで、高いところに祀り上げて満足してしまう。そうして本人の熱量も思想も抜け落ちて、一見立派な形だけが残ってしまう。

未来の人々は、その形のみを見て、本人を知った気になってしまう。その人の心の奥を想像しようとしない。未来を見据えて突き進んでいたであろう本人のことを、過去形で眺めてしまうのだ。急速にその人が”化石”と化していく。

思想を遺すは難しいということなのだろう。諭吉の思想は現代にどれほど残っているか。

思想を掘り起こすのは、後代の人々の想像力だ。想像力が枯れた時に、歴史は形骸と化し、思想は力を失う。想像することは一つの技法であるから、きちんと教えないと次の世代に続かない。教育とは「教える」ことではないのだ。一つは「想像を促す」ことなのだろうと思う。


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勉強なんて意味がないとか、学校が嫌いとか、本当にもったいない
自分の限られた体験や価値観をもって、学ぶ・生きることの意味を矮小化してしまっていないか
意味のある、楽しいと思える学びを始めればいいじゃないか 自分の力で



2025年11月12日



東京から九州へ、海の上


11月10日から日本全国行脚の秋バージョン。法事に呼ばれて九州・熊本へ。

今年二度目の船の旅。陸路より安いし、宿泊費も節約できる。しかも一度乗れば、目的地に着くまで、何もする必要がない。WIFIも届かないから連絡もつかないし、食事は自販機で盛りだくさんのメニューから選べるし、大きな浴場もある。周りは見知らぬ人ばかりで、気兼ねする必要もない。いうなれば "おこもり"の時間。出家の性分に合っている。

前回と同じく東京の夜景を背にして、ベイ・ブリッジを潜って洋上へ。景色を見せたくなる誰がいることは幸い也と思う。

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あいかわらず美しい黄昏の色


夕食後は、原稿執筆。『ブッダを探して』が、いよいよ最終章へ。ひと昔前の自分と比べれば、ずいぶん過去を語れるようになった。思うに以前は、自分が何者でもなく、過去がそのまま今の自分でもあったから、過去が近すぎて語るのが難しく、また下手に他人に興味を持たれたら、自分にとって大事な部分をいじくられてしまうのではないかという抵抗というか警戒のような思いがあった気がする。

だが、過去は妄想でしかないことは知り尽くしているし、他人の思いもまた妄想でしかない。そのうえ今の自分は、五十年以上生きて、それなりに大人になったし(ようやく?)、社会における立ち位置も確立できてきた気がするので、外のノイズを気にしなくてもよくなりつつある。平たく言えば、自信がついてきたといおうか(今頃?)。

自信なんて妄想の一種でしかないと重々承知しているが、多くの他者と関わらざるを得ない娑婆の世界では、大事なものを守るための防御壁みたいなものとして必要かもしれないと最近思う。

もしかしたら、この先もっと俗世と交わることになるかもしれない。その時には、今以上に、いい意味での自信というか、もう少し面の皮を厚くしておく必要があるのかもしれない。もっと鈍感でもいいように思う。

今回は、外の景色をほとんど見なかった。過去を振り返って、自分の思いの奥を探って、的確な言葉を探すことに専念した。おかげで、ずいぶん話が先に進んだ。

過去を振り返って、言葉にして、いっそうの心の自由を得る。まもなく新しい人生が始まるかもしれないこの時期に、ちょうど連載を通して過去を総ざらえするというのは、実によくできた計らいというものだ。

すべての過去を、いわば自分の外へと出してしまう。総ざらえのデトックスみたいな作業。すべての過去が、思い入れの対象ではなくなって、完全にただの記憶であり、話題の一つ程度にしかならなくなっている。

それだけ自由自在ということ。空っぽになった心を、来年からは、新たな試みをもって埋めることになる。


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東京の夜景を背に海へ



2025・11・10

せめてこの世界の美しさを


翌日5日は京都・丸太町。ランチで入った食堂では、「群馬・伊勢崎41.8℃「14か所で40℃超え」のTVニュース。画面には、真っ赤に染まった日本列島。

MCの男が「いつまで続くんでしょう?」。気象予報士は「さあ」と笑ってごまかす。昼間は日陰に入れとか、冷たいものを握れとか、うわっつらの暑さ対策で尺を取っている。

テレビ番組は、いつもこの調子だ。軽薄なノリでごまかし、原因も対策も未来のことも考えない。無思考の典型。コロナ騒動中もそうだったし、あの戦争中もこの調子だったのだろう。


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原因も対策も突き詰めて考えない こういう大人にはなってほしくない


年々、気温は上昇して、制御しきれなくなりつつある。いや、すでに制御しうる臨界点を超えている。

こうして人類は滅びるんだよ。
 
原因は明らかであるにもかかわらず、 誰も本気で取り組もうとしない(自分も含む)。
 
周囲におもねって、善良なふりをして、波風立つことは見ざる聞かざる言わざるを決め込んで。 
 
700万年にわたる連綿たる種の努力が、もうすぐ水泡に帰する。
 
こうして世界は滅んでゆくんだよ。

 
近頃ずっと、この世界を末期の眼で見てしまっている。滅びるのは、自分が先か、世界が先か。
 
さすがに自分が先だとしても、世界の終わりもそう遠い未来ではないような。
 
予感のような、妄想のような、晴れない憂いを抱えて続けている自分がいる。



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せめてこの世界の美しさがわかる自分のままでいよう



2025年8月5日




鳥取境港・水木しげる記念館2

水木しげる記念館は、想像を超えた迫力とスケールだった。本人の人生が深く広すぎて、この場所はどちらかといえば大人向けであって、子供にとってはむしろ難物(理解が難しい)場所かもしれないと感じた。


水木しげる(先生)は、大正11年(1922年)生まれ。よく寝てよく食べて、伸び伸びと育った。近所の「のんのんばあ」に、迷信・伝承・死後の世界や妖怪の話など、いろんな話を聞いたとか。のんのんばあと遠出もして、いろんな場所に出かけたそうだ。

この頃の体験が決定的な影響を与えたらしい。子供特有の好奇心と観察力に加えて、伝承の物語をたっぷり聞かされて育った独特の自然観。尋常小学校時代に父に油彩絵具をもらったことがきっかけで、絵に描く技術を育てていった。

水木しげるの感性は、柳田國男や南方熊楠に似ているところがある(※)。共通するのは、自分を取り巻く外の世界への尋常でない好奇心だ。柳田は若干社会への興味が強かったために官僚を経て民俗学へ、南方は自然への興味にまかせての博覧強記(しいていうなら生物学)、水木の場合は絵による表現につながっていった。水木持ち前の観察力は、戦後の子供向け漫画よりむしろ戦争漫画や緻密な風景描写に生かされている。

※柳田と南方は生前交流があったらしい。

明治・大正の頃は、彼らのような知的野生児が大勢いた印象がある。まだ学校も親も大らかだった時代だ。今のように塾に通う必要もない。誰もが進学せねばという社会的圧力もなかった。端的に自由だったのだ。その自由さが、彼らの感性と知力を育んだ。

今の時代のように、優等生であるとか学歴を手に入れるとか近所に褒められるとか有利な職業に就くとか、そういう欲目本位の打算計算が世に蔓延する前の話だ。彼らのような知力と生命力と表現力の傑物は、今の時代には育ちにくいだろうと思う。



水木は絵の才能は早くから認められていたそうだが、勉強とコミュニケーションは、能力の欠落といってもいいすぎではないほどに、苦手だったようだ。

園芸高校も1人だけ不合格。大阪の印刷会社に入ったが、ヘマばかりですぐクビに。会社勤めも新聞配達もダメ。野生育ちの青年の脳は、他の人とは違う育ち方をしていたのだろう(今なら発達障害とレッテルを貼られたかもしれない※)。


※少し脱線するが、発達障害というレッテルを貼ったときに問題となるのは、ではどう生きていくのかという方針がどれほど見えるかという点だ。
 
水木の場合は、外の世界に適応しきれず、異物としての自分をつねに感じていながら、自分に唯一できることとして絵を選んで(しがみついて)、道を拓いた。「できないことは多々あれど、唯一できることをもってわが人生となす」という潔さがある。

もし水木やその家族が「勉強して進学して就職することが望ましく、それができなければ世間に顔向けできない」というような偏った価値観にこだわっていたら、水木は社会不適格者として引きこもるしかなかったろう。そして社会との接点を一度も見出せずに消えていったはずだ。

人というのは、何か一つできることを見つけて、どこか一か所に居場所を見つけて生きていれば十分だ。そうした生き方さえ低俗な見栄で潰しているのが、今の社会の風潮であり、一部の親の認識であるとしたら、凄まじくもったいなく、残酷で、発想が貧しいことをしていることになる。


水木が19歳の時に太平洋戦争が勃発(つくづく愚かしいことをこの国は始めてしまったものだ。戦争をしない世界線だってあっただろうに)。20歳になった水木青年も徴兵されて、南洋ラバウルへ。

爆撃を受けて左腕を切断。マラリアにかかって高熱で寝たきりに。熱帯ジャングルの中を移動する途中に、いつ死んでもおかしくない極限の状況を経験。もともと胃袋が丈夫だったことが功を奏した。よく寝てよく食べて育った幼少期が、水木の生命力を育ててくれた。

こういう部分が因縁というものだ。本人が選び取るだけでなく、時代が、環境が、人々が与えてくれるもの。のんのんばあとの出会いも、その一つ。水木の命は、見えない因縁が支えてくれていたように見えなくもない。

水木は漫画家とは別に、戦争作家としての側面も持っている。記念館の内部は、戦争に関する絵と言葉の展示が半分を占めていた。水木が遭遇した軍の上司たちがどれほど卑小な人間だったかを、水木は絵で伝えてくれている。

日本人の心性というのは、自分の中に軸がないのだ。言われたことに従う、周りがやっていることに合わせる。そうやって目立たないこと、上の立場におもねることをもって、身の安全(保身)を図る。

だからこそ、褒められれば満足してしまえるし、嫉妬して足を引っ張ろうとするし、人のミスを執拗に責め続けるし、立場を手に入れれば、我を張って、威張り散らして、立場が弱い人を追い詰めようとする。

他方、都合が悪くなると真っ先に逃げ出す、人のせいにする、忘れたふりをする。反省しない。だから成長もない。形勢が不利だと見れば、反省しているフリはする。だが見せかけだけだ。実は「空っぽ」なのだ。

あの戦争末期の人間魚雷も、特攻隊も、片道だけの燃料を積ませての出航も、そうした中身のない人間が思いついた所業だ。空洞の人格。その心に動いているのは、小さな我欲と保身のための姑息な計算。そういうふうにできているのが、日本人の心性か。

だからこそ、世間やお上に弱い。唯々諾々、付和雷同、阿諛追従を、なんの臆面もなくしてしまえる。あの戦争を、国が滅びる寸前まで続け、負けを知って本気で涙して、終戦後は駐留米軍のために女性をあてがう慰安施設を急ごしらえして“外から来たお上”に取り入るという、下品にして計算高い人間なのだ。

今の時代の同調と忖度も、同じ文化的遺伝子から来ている。日本人は考えない(すべての日本人がとは言わないが)。考える軸がない。自分さえ安全ならそれでいいという姑息さを隠し持って、表面的にはいい子・いい人を演じている。

社会が良い方向に向かおうと悪い方向に走ろうと、社会のあり方を問うことはない(空っぽだから)。代わりにどんな社会にも適応してしまう。それが日本人というものかもしれない。


ああ みんな こんな気持ちで 死んでいったんだなあ
誰に みられることもなく 誰に語ることもできず
……ただ忘れ去られるだけ……

(展示中の漫画内のセリフ)


水木が作品の中で語っていた「わけのわからない怒り」は、そうした中身のない姑息な日本人の心性に対するものではなかったか。見ているようで何も見ず、考えているようで何も考えていない。そのくせ立場や権威をかさに着て、理不尽以上の理不尽を平気で強いて、都合が悪くなると真っ先に逃げ出す。力弱き者は、そうした生き物に取り囲まれて抜け出せない。

なぜこんな目に遭っているのかまったくわからないままに、最悪の死に方を強いられ、蛆虫に食べられて、見知らぬ熱帯林の土と化した日本人が累々といた。
 
こうした不条理、いや狂気とさえいえる現実への憤り、つまりは中身のない日本人という生き物への怒りを、水木は描き出そうとした。

戦後の水木は、心に溜まった不条理の汚物を吐き出すかのように、執拗に戦争物の漫画を描いている。どの作品も絶望的に暗く、狂気かと思わせるほどの執着をもって緻密に描いている。もともと人並みはずれた観察力の持ち主だ。その眼に焼きついた戦争という名の極限は、生涯焼きついて離れなかっただろう。

救ってくれたのは、これまたのんのんばあが教えてくれた“見えない世界”だったのかもしれない。妖怪、心霊、死後の世界。その心に見ている世界が豊穣だったからこそ、狂った現実の世界でも正気を保てたのではあるまいか。


記念館の中には、小さな子供も大勢来ていた。何も記憶に残らないかもしれない。だが、映像の光や漫画の線など、何かひとつが記憶の片隅に残ってくれれば、それが将来、感性や思考へと育っていく可能性がなくはない。

無理につきあわせるのは幼い子供には酷なこともあろうが、この年頃の子供は、自分で選ぶこと以上に「体験する」ことのほうが、意味を持つ。むしろ大人が行きたい場所・見たい物に付き合ってもらう、それくらいの働きかけのほうがよい気がする。



水木の人生はさらに続く。日本に帰ってきて、残った右腕で絵を描いて、紙芝居作家から漫画家へ。最初は赤本(貸本)、読み切り、さらに月刊誌・週刊誌の連載へ――テレビと並んで紙の本が娯楽として求められていた時代だ(※)。

※今なら動画か。媒体が変わるだけで、その時代の需要に応じて自らの才を発揮するという生き方の原型みたいなものは、時代を超えて変わっていないのかもしれない。漫画が価値を持つなら、動画も価値を持つということか。動画の場合は、際限がなく、反応を連鎖させて結果的に中毒状態に陥らせるという仕掛けこそが、独特の難点なのだろうが。


39歳で見合い結婚。妻は29歳。漫画家という得体のしれない男と結婚生活を始めるとは、妻となった女性にもそれなりの因縁があったのかもしれない。夫婦円満の秘訣を聞かれて、「相手に何も要求しない 何も期待しない」と水木は語っていたそうだ。たしかに(笑)。

「テレビくん」で講談社児童まんが賞を受賞して、売れっ子漫画家に。水木プロを結成。妖怪を描き始めたのは、49歳。まもなく鬼太郎が登場する。思うに、50代に入ると現実の自分が安定してきて、過去に体験したことが“引き出し”として活かせるようになる(それだけ余裕が出てくる)のかもしれない。



もしアイデアで文化を創ることができるなら、私なら「幸せを増やす妖怪」(を考える)という文化を創るだろう。廃棄物を消化する妖怪とか、遺伝子を組み換えて病気を治す妖怪とか、養分をかきあつめて食べ物を作り出せる妖怪とか。神様となると、人は求めすぎてよくない。妖怪のような、一つのことしかできない、不器用で小回りが利く生き物のほうがよい。

どんな働きをする妖怪かを想像して、具体的な造形をもって表現する。そういう発想が身に着けば、「幸せを創る」ことを考えるようになるだろう。

学校の子供たちに取り組んでもらう。そういう妖怪が一堂に会する「妖怪フェス」をやる。どこかで実験的にやってみることはできないものか。
 

夕方に妖怪列車に飛び乗って、米子から新見を通って一気に山陽に出た。岡山、姫路を通って、京都で一泊。

この夏は、金子みすゞと水木しげるの人生に触れた旅だった。こうした出会いが一つずつ心に積み重なれば、生きることも悪くないと思える。


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空想というのは偉大な力を持っている これも生命なのだ



2025年8月4日




鳥取境港・水木しげる記念館1


朝9時過ぎ、米子駅発の妖怪列車に乗り込む。駅の階段はねずみ男で、列車はねこ娘。ホームにも鬼太郎と一つ目小僧をはじめとするオブジェが並ぶ。しょっぱなから水木ワールド全開だ。夏休みということもあって、車内は子供連れがいっぱい。


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終点・境港駅まで、どの駅にも妖怪名がついている。すねこすり駅とか、こなきじじい駅とか。精緻なイラストと解説つき。「次の妖怪は何かなあ?」と同乗の家族連れ。でも中には、すでに疲れたらしく、ぐずりだす子供も。

駅ごとの妖怪をまめに写真に撮るのは、もっぱらお母さん(平日のためか、お父さんはいない家族が多かった)。なんなら子供以上に興味がありそう(親子あるある?)。

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ある程度思考力が育った子供なら、駅の妖怪に興味を持てるようだ。だがある駅に来て、妖怪を隠すように車窓にシェードがかかったままであることに気づいた。そのままでは妖怪が見えない。

窓際に座っているのは、二十代前半と思われる若い女性2人。米子からずっと手鏡を見つめて化粧し続けていた。窓の外の妖怪には目もくれない。

妖怪見たいなあ、開けてくれないかなあ・・という面持ちの家族連れに気づくことなく、最終駅まで一度も窓の外を見ることなく、2人は自分の顔だけを見つめていた。

境港駅も水木ワールド全開だった。駅を取り巻く妖怪のオブジェ群。駅近ビルにはお化け屋敷も。

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駅前のオブジェ 漫画ってほんとに訴求力がすごい



水木しげるロードには、精巧な作りの妖怪オブジェが並んでいる。どの妖怪も造形がリアル。すさまじい想像力。

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妖怪伝説は、どこから始まったのだろう。思いつくのは、古代のヤマタノオロチ伝説や、古事記の因幡の白兎、八百万の神々か。日本列島に棲息していた動物と、死の恐怖が作り出した幽霊と、超自然現象と、日本霊異記(平安時代)に代表される説話文学と。

説話は古代インドのジャータカ物語にさかのぼることができるから、仏教も影響を与えているのだ(※)。いろんな要素がない混ぜになって、日本独特の妖怪イメージが造られていったように思える。

※奇しくも「妖怪」という呼び名を定着させたのは、井上円了だとか。寺の息子で、のちに仏教改良運動を展開して、哲学館(今の東洋大学)を創立した思想家だ。

ちなみに西洋の場合は、一神教に由来する異物・異端の排除と、中世の未開の森を通して形成されたであろう、闇を恐怖するという自然観、この二つが影響して、あの殺伐とした幽霊(ゴースト)のイメージが形成されていったのではないか。 『グリム童話』はけっこう残酷だし、 風俗としてのハロウィーンは禍々しいし。 行き着いたのが、現代のゾンビ。

その源流にあるのは、フォビア(嫌悪)とフィア(恐怖)なのだろう。だから愛嬌がない。アニメキャラでさえ、素直な顔をしていない(アナ雪とか?)。

他方、日本の場合は、豊かな自然とアニミズムを背景としているから、動物も神々も身近な存在だ。だからみんな人間的で親しみが持てる。これが今日のゆるキャラにつながっていく。

空想上の生き物さえ、心に見えるもの(深層心理)が影響しているということか。西洋人は、日本人が作り出す妖怪や愛嬌満点のゆるキャラを真似しようにも、できないだろう。想像の原点がまるで違うからだ。

驚いたのは、あの列車の中でシェードを締め切って一心不乱に化粧をしていた女子2人組が、水木しげる記念館に入っていったことだ。

えええええ? 子供たちと同じ目的で来ていたの?? 妖怪見に来ていたのかい?? 


てっきり妖怪に飽きた地元の人かと思っていた。なぜあそこまで化粧に入れ込む必要があったのか? 妖怪級の謎といえなくもない――。


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いよいよ到着 水木しげる記念館



2025年8月4日

日本全国行脚2025 山口仙崎・金子みすゞ美術館

翌8月3日は、朝の列車で仙崎に向かった。宿でゆっくりしたくもあったが、便が少ないので朝イチの列車に合わせるほかない。浦部からは代行バス。見知らぬ山道や海岸沿いを走る至福の時。長門市駅まで運んでもらって、そこから仙崎まで一駅。


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ふと降りて浜辺を歩いてみたくなる
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ここにもあった夏の青


金子みすゞ美術館へ。みすゞ(本名テル)は幼い頃から想像力が傑出していた。ひときわ弱者への共感があった。光の裏にある陰を見る。嬌声の背後に隠れた寂しさを想う――この感受性は、どんなきっかけで育っていったのだろう。3歳の時に実父が亡くなったことも影響したのだろうか。

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両親はここ仙崎で書店(金子文英堂)を経営。本が、みすゞの感性と思索を育てたか。当時は多くなかった女学校への進学組。片道40分かかる登下校の道を、一人で物語を空想しながら歩いたそうだ。

卒業後は、下関で暮らす母のもとへ(母親はみすゞが16歳の時に再婚して下関に出ていた )。みすゞは、義父が経営する書店(上山文英堂)を手伝う。

当時の下関は、海の幸を全国に送り出す港町で、不夜城とも称される賑わいを誇っていたという。 “都会”の華やぎに創作意欲を刺激されたところもあったのか、二十歳を過ぎて“みすゞ”名で童謡詞を投稿し始める。幼い頃に養子に出された実弟と、弟とは知らずに“友情”(おそらく一部恋心)を育み始めたのも、この頃からだった。

書店に奉公として入ってきた男と見合い結婚。だがこの男が慢と怠惰の生き物で、みすゞの人生は暗転する。家父長制のもと、どんなに自堕落で乱暴な男であっても、家の権力を握ることができた時代だ。当時の女性にとって、家を出て自立することは、どれほど困難だったことか。しかもみすゞのような感受性が強く聡明な女性にとって、田舎のダメ男と夫婦生活を続けることなど、極限の拷問にも等しかっただろう。

結婚した年(23歳)に、かねてからみすゞの作品を高く評価していた詩人(西條八十)に勧められて、童謡詩人会へ。のちに広く知られる「大漁」「お魚」が詩壇で発表されたのは、この頃。同年秋に長女ふさえが誕生。

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書いたのは地元・仙崎小学校の子供たち 
ふつうこんな優しさを持っていたら、生きてはいけない


その後、夫との関係にますます追い詰められて、重度のノイローゼに。娘が4歳の時、みすゞは26歳にして自死を選んだ(※山頭火の母親もそうだった・・あの頃の女性の自殺率は、今以上に高かった可能性はないか)。

生前のみすゞは、童謡詩人として注目する人も多かったというが、自死によって投稿は途絶え、次第に忘れ去られていった――。


みすゞの作品が“発掘”されたのは、みすゞが亡くなった五十年も後のこと。みすずの童謡詩を十代の頃に見つけて以来のファンだったという男性(矢崎節夫氏)が、みすゞの痕跡を探し求めて、実弟(上山雅輔氏)にたどり着き、みすゞ手書きの童謡集3冊、全512編を受け取ったことが始まりだという。

みすゞの童謡は、日陰に追いやられるか弱き命に思いやりの光を当てることで、くっきりとした明暗と陰影を浮かび上がらせる。そのコントラストの鮮やかさが、人の心をせつなく打つのだ。広がっていくことは、自然な流れだ。まもなく学校の教科書にも掲載され、知らない人はいないといっていいほど著名な童謡詩人になった。

みすゞの生涯は、幼い頃の孤独からスタートしたように思えなくもない。寂しさゆえの弱者への想像力と、その思いを表現する言葉の力と。童謡詩は、幼い頃の自身の思いの最も自然な発露だっただろう。

自分が最も自分らしくいられた時期に書き表した童謡詩集を、親友でもあった実弟に託して、結婚によって予期せぬ苦悩を背負わされて、憔悴しきって自死を選んで――。

もしみすゞのファンだったという男性が探さなかったら、そして実弟が詩集を失くしていたら、みすゞの哀切に満ちた詩が脚光を浴びることは、永久になかった。小さな漁村で哀しく自死した名もなき女性として、永遠に埋もれていたことだろう。

なんというか、みすゞの生涯そのものが、土に埋められた金魚や、大漁の夜に海の中でひっそりと仲間のとむらいをした鰯に通じる気がする。みすゞ自身が陰の中で哀しい輝きを放つ命の一つだった。
 

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みすゞは幸運にも見出されたけれども、この世界には、人知れず消えていった、哀しく、せつなく、美しい命が無数に存在するのだろう。そうか、そうした見えない輝きが存在することを知り、その輝きを見つけたいと願ってやまない心の持ち主こそが、詩や文学に傾倒したり、旅し続けたりするのだろうか。

みすゞのような言葉の力がなくても、輝きを放っている命は、この世界に溢れているに違いない。そうした輝きは、言葉に紡ぐ必要さえない。その時、その場所で、笑ったり、涙したり、美しい景色を眺めたりして、心が動いたその瞬間に、美しい輝きが刹那の光を放つ。

この世界はきっと、そうしたキラキラした輝きに満ちていて、ただその輝きは、もしかしたら本人も気づかず、まして他の誰かが見つけることもなく、光を放って瞬時に消えるということを、無限無数に繰り返しているのかもしれない。

そんな奇跡のすべてを目の当たりにすることは当然できないけれど、それでもときおり、誰かが放っている輝きを見つけることがある。そんなときは単純に見惚(と)れてしまうし、こんな美しいものがこの世界には溢れているのだという思いを新たにして、輝きを見つける旅に出ようと改めて思える。

仙崎への道中で見た景色も、みすゞの切ない生涯も、この世界に溢れる無数の輝きを思い出させてくれる絶好のきっかけになった。よい旅をしたものだとつくづく思う。



記念館の中で、小4の女の子とおばあちゃんと再会。仙崎への電車の中で一緒だった二人。女の子は東京から来たという。おばあちゃんは元気だが、女の子は退屈そう。みすゞの言葉は少し早かったかもしれないね。いつかこの日を思い出して、再び仙崎を訪れることもあるのだろうか。

金子みすゞ美術館のイラストは、長門市在住の尾崎眞吾(おざき しんご)氏が手がけているという。

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透明感と色彩の豊かさが共存する画風 純粋にきれい 原画はもっときれい




16時過ぎの列車に乗って、山陰本線で鳥取・米子に向かう。影を増す海岸線に並ぶ家々。いろんな場所に、いろんな暮らしがある。途中下車して歩いた、人影まばらな町並みも好(よ)き。

列車を乗り継いで、米子に着いたのは23時過ぎ。7時間のローカル列車の旅。車窓の景色も、車内の人々の姿も眺めることができるので、退屈しない。腰痛になることもない。気力、体力ともにまだ大丈夫。


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仙崎の碧い海 きっとみすゞには真昼の青さより夜の漆黒に潜む命のほうが身近だったのかもしれない




2025年8月3日
 
 


日本全国行脚2025 博多から下関へ


船旅2日目は、船上でゆっくり過ごす。

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テレビでは刑事ドラマの再放送・・岡江久美子さんが主演。

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どこで見ても美しい夕日


門司港に朝5時半に到着。ゆっくりと船着場に入っていく船の看板に上がると、ほの明るむ東雲の空が見えた。

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船旅は悪くない。時間の余白が多い。気が赴くままに仕事したり、デッキに上がって海原を眺めたり。恋愛中のカップルにもお勧めだし、失恋した後の傷心旅行にも最適・・というまったく縁のない妄想を勝手にしちゃったりした。

今回のフェリーの弱点は、送迎バスがないこと。相乗りタクシーで門司駅まで。予約券一人440円。でも同乗客は私も含めて3人しかおらず、メーターは駅についた頃には3000円近くに(けっこう距離があった)。

運転手さん、朝5時すぎにユニフォーム着て、タクシーで来て(もう一台には一人だけ乗っていった)、正規運賃を下回る額。なんだか申しわけない。このせつなさも、旅につきもの。


JR門司駅から博多まで。地下鉄で天神まで行って、じょいふるで朝食(船の中で一風呂浴びればよかった)。2階クーラーが故障中とかで一階だけ。徹夜明けらしき若い男女が上機嫌で歌を歌い始めて、店員の老婦人に叱られている。いや、元気だ、頼もしい(笑)。

昼過ぎまでお世話になって、歩いて会場施設へ。

はて何人来てくれるか、でも一人でも来る人がいるなら続けなければという思いで、東京ではやってきた。東京から博多まで足を運んで参加者数名というのはいささか残念と思っていたが、予想以上に多くの人が来てくれた。普通の規模の勉強会になった。


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毎回話題が変わるのも面白いところ


終了後は、希望者一人ずつ面談。オーディブルを聞き始めたばかりという女性も、今日は方に向かう途中でイベント検索したらたまたま出て来て、予定変更してやってきたという女性も。今年もやってよかった、と思う。

終わって、再び一人に戻る。とたんに街の景色が“凡庸”になる不思議。物欲がないので、豪華なビルも賑やかしい店の装いにも、ぜんぜん関心が湧かないのだ。ひとまず博多駅に戻って、JRで西の方に行けるところまで行く。

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西へと急ぐ


夜9時半過ぎに下関に到着。下松(くだまつ)行きの接続列車があった。昔バイトで教えていた美術学校の学生が下松出身だったと、この駅に来るたびに思い出す。結局地元の下松に戻ったのだが、もう三十年近く経っている。どんな大人になっているのだろう。探しに行きたくなる。

前回の旅でもいただいた定食屋がギリギリ開いていたので、鯨汁定食をいただく。最後の客だが、ちゃんと調理して熱々にしてくれた。

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すきっ腹には熱い鯨汁が沁みます


この一帯も、かつては不夜城と言われた港町だったそうだが、人も減って、すっかり寂しくなってしまったそうだ。店の周りには、色を失って久しい商業施設が、夜の帳の中に音もなく沈んでいる。鮮やかな色が褪せて行って、陰の色が増えていく。日本中どこに行っても同じ。今のうちに目に焼きつけておきたい。

駅近くの宿に泊まる。野宿する予定だったが、5千円分の贅沢と堕落を選んでしまった。潮の匂いを嗅ぎながら夜を過ごせたであろうのに。出家たる私も弱くなってしまったものだ。


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夜の下関 前回来た時は腹痛に苦しむ20代の女性と遭遇して救急車を呼んだのだった あの人もどこかで暮らしているのだろうか


2025年8月上旬