11月10日から日本全国行脚の秋バージョン。法事に呼ばれて九州・熊本へ。
今年二度目の船の旅。陸路より安いし、宿泊費も節約できる。しかも一度乗れば、目的地に着くまで、何もする必要がない。WIFIも届かないから連絡もつかないし、食事は自販機で盛りだくさんのメニューから選べるし、大きな浴場もある。周りは見知らぬ人ばかりで、気兼ねする必要もない。いうなれば "おこもり"の時間。出家の性分に合っている。
前回と同じく東京の夜景を背にして、ベイ・ブリッジを潜って洋上へ。景色を見せたくなる誰がいることは幸い也と思う。
あいかわらず美しい黄昏の色
夕食後は、原稿執筆。『ブッダを探して』が、いよいよ最終章へ。ひと昔前の自分と比べれば、ずいぶん過去を語れるようになった。思うに以前は、自分が何者でもなく、過去がそのまま今の自分でもあったから、過去が近すぎて語るのが難しく、また下手に他人に興味を持たれたら、自分にとって大事な部分をいじくられてしまうのではないかという抵抗というか警戒のような思いがあった気がする。
だが、過去は妄想でしかないことは知り尽くしているし、他人の思いもまた妄想でしかない。そのうえ今の自分は、五十年以上生きて、それなりに大人になったし(ようやく?)、社会における立ち位置も確立できてきた気がするので、外のノイズを気にしなくてもよくなりつつある。平たく言えば、自信がついてきたといおうか(今頃?)。
自信なんて妄想の一種でしかないと重々承知しているが、多くの他者と関わらざるを得ない娑婆の世界では、大事なものを守るための防御壁みたいなものとして必要かもしれないと最近思う。
もしかしたら、この先もっと俗世と交わることになるかもしれない。その時には、今以上に、いい意味での自信というか、もう少し面の皮を厚くしておく必要があるのかもしれない。もっと鈍感でもいいように思う。
今回は、外の景色をほとんど見なかった。過去を振り返って、自分の思いの奥を探って、的確な言葉を探すことに専念した。おかげで、ずいぶん話が先に進んだ。
過去を振り返って、言葉にして、いっそうの心の自由を得る。まもなく新しい人生が始まるかもしれないこの時期に、ちょうど連載を通して過去を総ざらえするというのは、実によくできた計らいというものだ。
すべての過去を、いわば自分の外へと出してしまう。総ざらえのデトックスみたいな作業。すべての過去が、思い入れの対象ではなくなって、完全にただの記憶であり、話題の一つ程度にしかならなくなっている。
それだけ自由自在ということ。空っぽになった心を、来年からは、新たな試みをもって埋めることになる。
東京の夜景を背に海へ
2025・11・10