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2023年12月 山口・萩 吉田松陰の熱

先週末から西日本を旅していました。島根(松江・玉造温泉) ⇒ 萩、そして名古屋。いよいよ日本全国行脚2023も完遂。


島根は講演会に呼んでいただいたため。出会えた人たちが素晴らしすぎました。とても思い出深い旅となりました。

山口・萩では、吉田松陰「先生」の記念館や墓地を回ってきました。

吉田松陰先生は生粋の教育家だったのだという印象が残りました。

勉強(読書)が大好きだったようですが、それも門弟の若者たちに何をどう教えるかという眼で見ていた気がします。

教育者としての情熱があったからこそ、門弟たちを深く感化できたのでしょう。

明倫館(長州藩校)もすごかった。当時は武術・剣術・軍事訓練の道場でもあり。長州藩の「心臓」みたいな場所。ここでも鍵となったのは教育。

萩の学校では、今なお吉田松陰先生の言葉を小学1年生から唱和させるのだとか。

「至誠」――真の心を尽くせば、届かぬ・動かせぬものはないというのが、吉田松陰先生の思いの中核。

言葉以上に、心が熱かった。だからこそ言葉に、行動に、そして影響力につながる。

当時の日本には、藩校・寺子屋・塾が全国にたくさんあった。藩お抱えの場所もあれば、地域の篤志家や村のリーダー的な人が個人で始めた場所もあった。

「情熱」から始めるからこそ、通いたいと思うし、感化・影響も受ける。

自由教育・私教育を通じて育った心が、幕末から維新にかけて国の姿を変えていった。

もし心を管理・統制してしまえば、情熱は育たない。

今の日本社会の閉塞は、教育の場から情熱が奪われてしまったことにも大きく起因しているというのが、個人的な印象。

学校で学ぶことがお上(文科省)に管理され、その中に先生も生徒も幽閉されているようなもの。

幽閉されて、その外に広がる学びを知らず、もはや想像もできなくなった大人たちが勉強を教え、

また学ぶ意味もわからないまま、そうした学びを半ば強制された子供たちは、我慢してつきあうか、成績が良ければいいという歪んだ価値観を取り込んで、中味のない勉強に励んで十代を消費してしまう。

中味のない教育・勉強。しかし事実上の義務であって、それしかないという教育制度が、百年以上続いてしまっている。

政治、経済、社会制度のみならず、教育もまた病的に停滞・閉塞しているのだろうと感じました。

当時は、日本全国に「吉田松陰」がいた。情熱を核とする大人たち。

そういう大人が子供・若者を薫陶して、その若者たちが日本を変えていった――。


学ぶところの多い旅でした。



2023年12月20日

生きられるかぎり生きてゆく


今年の全国行脚、ある場所で参加者がこんなことを言っていた。世の中はこんな状況で、この先もっと悪くなるかもしれない。こういう現実の中で子供を産んで育てることに意味があるのか、ふと考えることがあると。

気持ちは痛いほどわかる気がする。実際に、世界がこんな状況だから、子供を持たないほうがいい、社会がこんなに生きづらいのだから結婚しないほうがいい、という人はいる。

だが人間として何が正しい生き方か。まずは命をまっとうすることだ。その上にどれほどの満足を載せることができるかという問いが来る。人間もまた生命である以上は、誰かと結ばれて、子供を育てて、未来へとつなげていくことが、普遍的に価値あることだ。その前提が維持されて初めて、個人の選択(自由と多様性)が可能になる。

今は、多様性の時代だと言われる。結婚するか、子を持つかは、個人の自由。性差さえ主観によって選んでいい。いわば自分の心が選ぶことこそが正解だという、そんな価値観の変動が起きている。

それは一面では価値あることだし、社会における正解としてよい部分もあるとは思う。だが、未来がどうなるかわからないから、現実にこれだけの悲観すべき理由があるから、結婚しない、子も持たないと考えるのは、少し違う気がする。

命の本来の姿は、時代や社会のあり方に関わりなく、人が人を信じ、子を育てて、未来につなげていくことにあると思えてくるからだ。

多様性をいうなら、結婚してもしなくても生き方として尊重されるべきだし、結婚しないカップルが子を持つこと、あるいは人の子を養うことも、同じように認められていい。そういう「親」を社会がサポートする体制があってもいい。

変化を拒む社会・価値観が硬直した社会が、結婚しづらい、子育てしづらい環境を作っているだけであって、だからといって結婚しない、子を持たないことが、時代の趨勢だとか、多様性がもたらすライフスタイルだと考えることは、若干筋が違うように思う。

結婚することを、そんなに難しくしては本来いけないはず。子を育てることも、さほど難しいことではないはずなのだ。生き物なら、みな当たり前のようにやっている。

子供には衣食住を親または社会が保証して、最低限の教育を与えて、その後は何かひとつ仕事をしてもらって、生涯生きていけるだけのサポートを国が受け持つ。これがそんなにも難しいことなのだろうか。

難しくしている理由は、結婚や子育てという営みそのものにあるのではなく、人間が必要以上に難しくしている部分があるような気がする。みずから難しく考え、また人にも難しさを強いている。

難しくしているのは、人間の意識(心の持ちよう)だ。人と結ばれ、子を育てるという本来シンプルな営みが難しくしているわけではない。何が本当の原因かが見えてない可能性はないか。これもこの国を覆う思考放棄の産物ではなかろうか。

特に子育てに決まった答えがあるはずもない。人は時間が過ぎれば大人になる。その時に、この世界でひとつ働きを果たして生きていくだけである。

それができるなら、教育さえそこそこでよい。小中を義務教育と定めるなら、それ以降は、それこそ、いつの時点で仕事を引き受けるか、世の中のどこでどんな役割を果たすかは、個人の選択の問題だ。まさに自由であり多様であるべきもの。

本当はそれくらいに子育てに求めるものを緩く、ハードルを低くしてもよいはずなのである。

重くしているのは何か、誰か。この社会に生きる人間に他ならない。

親がどんな人間であれ、とりあえず独り立ちするまでなんとか面倒を見ることで、親の務めは果たしたことになる。あとは本人次第。親が過ちを犯したからとて、子供がいつまでも責めることは反則というものだし、親もまたいつまでも子供を追いかけることは、間違いである。

親たる仕事は、期間限定のお務めだ。これもまた命本来の姿。普遍的な生命界のルールである。

人は大人になり、働いて、生きられるだけ生きていく。それだけで十分だ。その中で命としての務めを果たす。結婚できるならしてみる、育てられるなら育ててみる。

体験すること自体に価値がある。成功せねばと思いつめる必要があるだろうか。思いつめていないか。

育つ、働く、生きる、結ばれる、育てる――そうした当たり前の営みを、当たり前のこととして続けていくのが、命本来の姿ではないか。社会の状況がどうだとか、未来がどうなるかといったことは、こうした命本来の姿の「次」の問題だ。

 

たしかに困難はあるし、危機は急速に増えているのかもしれないが、「命として自然になすべきこと」を左右するものではない。命本来の営みを、外の世界のあり方を理由に左右させること自体が、本末転倒なのかもしれない。

 

こうしたことを言うと、個人の選択を尊重しないのかとか、結婚できない人・子供を持てない人もいるではないかと考える人もいるだろう。無論そういうことではない。

人それぞれにどう生きるかは自由に選べばよいことだとしても、命としてごく自然な営みをまっとうできる人は、臆せずに、未来を恐れずに、堂々と生きて、めぐり会った人と生きて、子を育て、未来へと送り出す。それは議論無用の価値あることだというまでである。

結婚しない、子を持たない人生を生きる人は、その人生をまっとうすればいい。人と同じ生き方をせねばと考える必要はなく、また自分と同じ生き方を他人に期待する(同調を求める)ことも間違いだ。

生きることの中身は、同じでなくていい。いかなる生き方も正しいのである。

他人の生き方を否定することも、羨むことも、また自分の人生を否定したり卑下したりすることも、しなくていい。堂々とおのれの人生を生きればいいのである。

さまざまに生きる人々の中で、もし自分がほんの少しでも「未来につなぐ」という意識を持てるなら、自分にできる範囲で、未来につなぐ営みに参加すればいい。

「子供・子育てに寛容になる」ことは、最初の一歩。ボランティアで子供たちに関わることも一つだろうし、ほんの少し財産を提供することも、自分亡き後に寄付することもありだ。

ちなみに仏教では、物に限らず、言葉やふるまいや、それこそ微笑みだけでも、「与える」ことに含まれる。与えることが荷が重いと感じる人は、「未来につなぐ」という価値を知っているだけでもいい。

自分の人生に並べて、「この世界の未来」というもう一つの価値を理解することだろうと思う。

自分が生きることは、この世界を支えること。仕事のあるなしに関わらず、生きるという事実が世界を作る。生きるだけでこの世界を支えているという真実は忘れないようにしたい。

自分が生き抜くことで世界を支え、その事実が未来へとつながっていく。未来につなぐという意識を持って、人を苦しめることなく、生きられる限りは生きていく。

それだけで十分に意味がある。人はその事実を「人間の尊厳」と呼んでいる。


世の中にはいろんな考え方があるが、考えすぎるには及ばない。真実はシンプルなものだ。

世界がどんな状況であれ、未来がどのようになるにせよ、自分自身が精一杯生きること。

正しい(≒苦しみを増やさない)生き方を貫くこと。

未来につなげようという意識を持つ。

できる範囲で役割を果たす(生き抜くだけで役割を果たしているという真実も含む)。


それが、一人一人が選び取るべき最終的な答えということになる。

人は生きるだけであり、未来を育てるだけだ。

生きるという営みに、ためらいも否定も迷いもいらない。

 

まっすぐに生きて、育てて、命を完遂するのみである。


日本全国行脚2023完遂

草薙龍瞬

世界はまだ輝いているぞ

 

2023・9・5



あの戦争、この島の人々

8月15日 

この日が近づくと、毎年、あの戦争をめぐる映像や特集記事を目にすることが増える。

一億人もの人間が狂気を共有すれば、300万人以上の同朋を殺してもなお戦争を続けようという狂った事態にたどり着く。

目の前で肉親が殺されるのを目の当たりにしながら、なお「勝つ」という曖昧な狂気から目を醒まさない。

あの戦争は、一部の軍人たちが扇動したものという見方もあるが、実は戦争を望んでいたのは国民たちだったという指摘もある。

勝てる見込みがあるかないかよりも、その時点での風潮・空気で決めてしまう。

一度決めたら極限まで突き進む。東京大空襲で10万人、沖縄戦で20万人、広島原爆で10万人、長崎原爆で10万人。最後のわずか半年で60万人を超える死者が出た。


国の外でも内でも夥しい数の人間が殺されていたにもかかわらず、この島の人たちは戦争をやめようとせず、敗戦の放送を聞いて本気で泣いたという。

政府が敗戦を受け容れる決断をしなければ、この島の人たちはまさに玉砕覚悟、全滅するまで闘っていた可能性もなくはない。

嬉々として国が亡びることさえ受け入れる。その寸前まで進んでいた。


振り返れば理解しがたいほどの狂気。だが、深く掘り下げれば、この島国の人々の精神性というのは、当時も現代も、あるいは太古にさかのぼっても、あまり変わっていないように思わなくもない。

とりわけこの夏に考えたことは、なぜこの国の人々は、「死することをかくも簡単に美化できるのか」ということだ。

死ねば終わるだけでなく、未来への可能性も潰える。

個人の人生であれ、国であれ、同じことだ。


ところが簡単に人に死を強要し、みずからも死を選ぶ。


死という絶対的な滅びよりも、死する自分をいかに身近な者たちに見せるか、死にゆく自分をどう思ってもらえるかという、周囲の目のほうを向いている気がしてくる。

自分にとっての意味よりも、他者の視線に意味を見る。

自分の頭で思考するより、思考を放棄し、周囲に順応し、埋没してみせようとする。

個として立つよりも、人の間にうまく収まることを優先させる。

自分が望む生よりも、他人に讃えられる死を選ぶ。

周りが滅びることを選ぶなら、自分も滅びることをよしとする。


最後の最後まで自分というものを持たない、持てない精神性。


病的なまでに自分を持つことから逃避しようとする。


そういう精神性はあるのか、ないのか。


日本人という種族の心性は、未知の領域だ。



今後掘り下げてゆかねばならない課題の一つ。



2023年8月15日




旅の終わりに想うこと(2023全国行脚完遂)


今年の全国行脚、ある場所で参加者がこんなことを言っていた。世の中はこんな状況で、この先もっと悪くなるかもしれない。こういう現実の中で子供を産んで育てることに意味があるのか、ふと考えることがあると。

気持ちは痛いほどわかる気がする。実際に、世界がこんな状況だから、子供を持たないほうがいい、社会がこんなに生きづらいのだから結婚しないほうがいい、という人はいる。

だが人間として何が正しい生き方か。まずは命をまっとうすることだ。その上にどれほどの満足を載せることができるかという問いが来る。人間もまた生命である以上は、誰かと結ばれて、子供を育てて、未来へとつなげていくことが、普遍的に価値あることだ。その前提が維持されて初めて、個人の選択(自由と多様性)が可能になる。

今は、多様性の時代だと言われる。結婚するか、子を持つかは、個人の自由。性差さえ主観によって選んでいい。いわば自分の心が選ぶことこそが正解だという、そんな価値観の変動が起きている。

それは一面では価値あることだし、社会における正解としてよい部分もあるとは思う。だが、未来がどうなるかわからないから、現実にこれだけの悲観すべき理由があるから、結婚しない、子も持たないと考えるのは、少し違う気がする。

命の本来の姿は、時代や社会のあり方に関わりなく、人が人を信じ、子を育てて、未来につなげていくことにあると思えてくるからだ。

多様性をいうなら、結婚してもしなくても生き方として尊重されるべきだし、結婚しないカップルが子を持つこと、あるいは人の子を養うことも、同じように認められていい。そういう「親」を社会がサポートする体制があってもいい。

変化を拒む社会・価値観が硬直した社会が、結婚しづらい、子育てしづらい環境を作っているだけであって、だからといって結婚しない、子を持たないことが、時代の趨勢だとか、多様性がもたらすライフスタイルだと考えることは、若干筋が違うように思う。

結婚することを、そんなに難しくしては本来いけないはず。子を育てることも、さほど難しいことではないはずなのだ。生き物なら、みな当たり前のようにやっている。

子供には衣食住を親または社会が保証して、最低限の教育を与えて、その後は何かひとつ仕事をしてもらって、生涯生きていけるだけのサポートを国が受け持つ。これがそんなにも難しいことなのだろうか。

難しくしている理由は、結婚や子育てという営みそのものにあるのではなく、人間が必要以上に難しくしている部分があるような気がする。みずから難しく考え、また人にも難しさを強いている。

難しくしているのは、人間の意識(心の持ちよう)だ。人と結ばれ、子を育てるという本来シンプルな営みが難しくしているわけではない。何が本当の原因かが見えてない可能性はないか。これもこの国を覆う思考放棄の産物ではなかろうか。

特に子育てに決まった答えがあるはずもない。人は時間が過ぎれば大人になる。その時に、この世界でひとつ働きを果たして生きていくだけである。

それができるなら、教育さえそこそこでよい。小中を義務教育と定めるなら、それ以降は、それこそ、いつの時点で仕事を引き受けるか、世の中のどこでどんな役割を果たすかは、個人の選択の問題だ。まさに自由であり多様であるべきもの。

本当はそれくらいに子育てに求めるものを緩く、ハードルを低くしてもよいはずなのである。

重くしているのは何か、誰か。この社会に生きる人間に他ならない。

親がどんな人間であれ、とりあえず独り立ちするまでなんとか面倒を見ることで、親の務めは果たしたことになる。あとは本人次第。親が過ちを犯したからとて、子供がいつまでも責めることは反則というものだし、親もまたいつまでも子供を追いかけることは、間違いである。

親たる仕事は、期間限定のお務めだ。これもまた命本来の姿。普遍的な生命界のルールである。

人は大人になり、働いて、生きられるだけ生きていく。それだけで十分だ。その中で命としての務めを果たす。結婚できるならしてみる、育てられるなら育ててみる。

体験すること自体に価値がある。成功せねばと思いつめる必要があるだろうか。思いつめていないか。

育つ、働く、生きる、結ばれる、育てる――そうした当たり前の営みを、当たり前のこととして続けていくのが、命本来の姿ではないか。社会の状況がどうだとか、未来がどうなるかといったことは、こうした命本来の姿の「次」の問題だ。

 

たしかに困難はあるし、危機は急速に増えているのかもしれないが、「命として自然になすべきこと」を左右するものではない。命本来の営みを、外の世界のあり方を理由に左右させること自体が、本末転倒なのかもしれない。

 

こうしたことを言うと、個人の選択を尊重しないのかとか、結婚できない人・子供を持てない人もいるではないかと考える人もいるだろう。無論そういうことではない。

人それぞれにどう生きるかは自由に選べばよいことだとしても、命としてごく自然な営みをまっとうできる人は、臆せずに、未来を恐れずに、堂々と生きて、めぐり会った人と生きて、子を育て、未来へと送り出す。それは議論無用の価値あることだというまでである。

結婚しない、子を持たない人生を生きる人は、その人生をまっとうすればいい。人と同じ生き方をせねばと考える必要はなく、また自分と同じ生き方を他人に期待する(同調を求める)ことも間違いだ。

生きることの中身は、同じでなくていい。いかなる生き方も正しいのである。

他人の生き方を否定することも、羨むことも、また自分の人生を否定したり卑下したりすることも、しなくていい。堂々とおのれの人生を生きればいいのである。

さまざまに生きる人々の中で、もし自分がほんの少しでも「未来につなぐ」という意識を持てるなら、自分にできる範囲で、未来につなぐ営みに参加すればいい。

「子供・子育てに寛容になる」ことは、最初の一歩。ボランティアで子供たちに関わることも一つだろうし、ほんの少し財産を提供することも、自分亡き後に寄付することもありだ。

ちなみに仏教では、物に限らず、言葉やふるまいや、それこそ微笑みだけでも、「与える」ことに含まれる。与えることが荷が重いと感じる人は、「未来につなぐ」という価値を知っているだけでもいい。

自分の人生に並べて、「この世界の未来」というもう一つの価値を理解することだろうと思う。

自分が生きることは、この世界を支えること。仕事のあるなしに関わらず、生きるという事実が世界を作る。生きるだけでこの世界を支えているという真実は忘れないようにしたい。

自分が生き抜くことで世界を支え、その事実が未来へとつながっていく。未来につなぐという意識を持って、人を苦しめることなく、生きられる限りは生きていく。

それだけで十分に意味がある。人はその事実を「人間の尊厳」と呼んでいる。


世の中にはいろんな考え方があるが、考えすぎるには及ばない。真実はシンプルなものだ。

世界がどんな状況であれ、未来がどのようになるにせよ、自分自身が精一杯生きること。

正しい(≒苦しみを増やさない)生き方を貫くこと。

未来につなげようという意識を持つ。

できる範囲で役割を果たす(生き抜くだけで役割を果たしているという真実も含む)。


それが、一人一人が選び取るべき最終的な答えということになる。

人は生きるだけであり、未来を育てるだけだ。

生きるという営みに、ためらいも否定も迷いもいらない。

 

まっすぐに生きて、育てて、命を完遂するのみである。


日本全国行脚2023完遂

草薙龍瞬

世界はまだ輝いているぞ

 

2023・8・6




豊後竹田 幸運な人(滝廉太郎)


正午あたりに豊後竹田に到着。駅のそばに滝が(落差60メートルに及ぶ落門の滝)。駅が建って景観が激変したそうだが、かつては確かに滝があり渓流があり、風光ゆたかな名所だっただろうと思わせる。

自転車をレンタル(300円)。滝廉太郎記念館へ。廉太郎は、12歳から2年半を竹田で過ごしたそうだ。

豊後竹田は、もとは岡藩の城下町で、九州の小京都といわれるほど賑わっていたという。人々は華道、茶道、三味、謡曲、仕舞、琴などの遊芸をたしなみ、木下駄で町を闊歩する。そうした人々の活気に加えて、竹林がそよぐ音や鳥のさえずり、井出(側溝)のせせらぎなど、多彩な音色が、多感な年頃の滝を刺激した。この土地での二年半が滝の音楽の原点になったことは、間違いない。

竹田の町は、岩をくりぬいた隧道(ずいどう)もあって、規模は小さいが表情は豊か。緑豊かな渓谷・丘陵に囲まれて、何かに守られているような安堵感がある。この町で過ごした廉太郎は幸運だった。

滝は大分の高校を卒業後、十五歳で東京音楽学校予科に入って、翌年に本科に進んでいる。十八で『砧』という最初の歌を発表。二十歳で主席卒業。二十二歳でドイツに留学し、ライプツィヒ王立音楽院で学ぶ。だが二か月も経たぬうちに結核にかかって入院。翌年夏にやむなく帰国。その年のうちに亡くなってしまった(享年23歳)。あまりに短い人生だが、『箱根の山』『荒城の月』などの名曲を残した。

たしかに寿命は短く、芸術は長い(中学時代の同窓生である彫刻家・朝倉文夫の言葉)。

生きた歳月の長さではなく、人の心に残る作品を遺すことで、芸術家の人生は浮かばれる。滝は『憾(うらみ)心残り』という曲を残したくらいだから、不本意ではあっただろう。だが音楽家としては幸運な人だったといっていいかもしれない。



竹田出身の画家に田能村竹田(たのむらちくでん)という人がいる。あの大塩平八郎と会って、自分の弟子(田能村直入)を大塩が主宰する塾(洗心洞)に入門させたとか。岡藩で百姓一揆があったとき「君主は仁愛を第一として百姓を処罰すべからず」という建言書を藩に提出。大塩は歴史が記す通り、飢饉で米価格が高騰した際、まず私財を投じ、打ち壊しの乱を起こして、最後は自害せざるをえなかった。

経世済民(けいせいさいみん 世を巧みに収めて民を救う)という思想を彼らは自然に選んでいた。富める者がますます富むだけの今の経済とは異なる。時を下るにつれて、人間も学問も視野が卑小化した感がなくもない。



レンタル自転車で岡城を一周。今回、初の電動自転車。ペダルに力を入れただけでクンと押してくれる感じ。坂道も軽々。子供を載せたお母さんがサドルに腰かけたままスイスイ坂道を追い越していくナゾがわかった。確かにラク。

だが出家たる者、電動であっても電源を入れずに漕ぐくらいの生き方が望ましい(笑)。「堕落じゃ、だーらーくーじゃー(※「八つ墓村のたたりじゃー」的に)と言いつつ、スイスイと漕いでしまう。

ダムの放流ルートでもある川を越え、駅の先にある佐藤義美記念館を訪問。竹田出身の童謡作家。代表作に「グッドバイ」「いぬのおまわりさん」。早稲田の文学部出身。

記念館の男性に話を聞いた。あまり人は来ない(その時は私一人)。市が運営しているから、かろうじて持っている。実は佐藤義美も、竹田の地を後にして戻ってこなかったそうだ(晩年過ごしたのは逗子桜山)。地元の人も佐藤の存在を知らなかった。市が公園計画を進めた時に、登記簿から佐藤家の土地と判明。よしみ公園と名づけた後に、秘書だった女性が私財をはたいて、佐藤の生前の家を復元。それを市に寄贈して佐藤義美記念館になったという。

平賀も、滝も、佐藤も、名を成した後に故郷に戻ったわけではない。あくまで期間限定的。故郷に背を向けていた感さえある。それでも地元の人たちは、故郷出身の偉人・有名人として記念館を立てて顕彰している。土地を愛する地元の人たちの熱量が印象的だった。


夜の川沿いを歩く 夜の底を人知れず歩く
時間が出家には合っている




2023年7月末日



自由に学べばいいんだよ 愛媛・卯之町 

※毎年開催している日本全国行脚 2023年旅の記録の抜粋です:

7月25日(火)

愛媛・卯之町を訪問。近所に展示館があったので、のぞいてみた。卯之町には江戸時代の町屋から昭和初期までの建築物が残っている。その古風な景観を町を挙げて保存しているらしい。

江戸末期から明治初期にかけての町の名士たちが年表に並んでいる。町の開業医・二宮敬作と、その弟子でありシーボルトの娘である楠本イネ。
 

私塾を開いた左氏珠山と上甲宗平。やはり(案の定)学制が敷かれる前だ。当時は教育熱心な大人たちが、持ち前の情熱ひとつで塾を開いていた。学ぶ子供たちも、受験のためではなく、純粋な向学心ゆえだ。こっちのほうが本物の学びだったように思えてならない。
 

町医者の二宮敬作は、長崎に留学して、シーボルトが開いた鳴滝塾に入ったという。同僚に高野長英や伊藤玄朴。仕送りが途絶えて、「芋をかみ、塩をおかずとして」日夜励んで、医学・植物学・物理学などを学んだという。
 

興味を引いたのは、明治期初頭の山内庄五郎。算術研究家で、四十一歳で故郷・卯之町を離れて、以後三十二年にわたって算術を勉強(修業?)するべく日本全土を行脚したそうだ。故郷に戻ってきたのは、七十三歳。運よく長生きできたから故郷に戻れたが、どこかで客死した可能性もある。当時の人は旅を恐れなかったのか。今とは旅の意味が違うかもしれない。
 

まだ体制(エスタブリッシュメント)が確立する前の時代には、こういうアウトローが、日本中にいた。彼らの原点は思いつきだ。寺子屋で最低限の教育を受けた後は、気の赴くままに我流で勉強を続け、つてを頼って人に教えを請うて、独立独歩・自主自立の生き方を貫いているうちに、たまに高いレベルの思想・事業・物・技術にたどり着いて世に遺す。そんな印象がある。
 

だから時代を越えて通用する価値を創り出した人もいれば、正直あやしい自称発明家・なんちゃって思想家みたいな人もいた。成し遂げた人と遂げきれなかった人、偉人と奇人、本物と偽物、正統と亜種が、グラデーションを成して存在することは、昔も今も変わらない。
 

だが幕末から明治期にかけてのほうが、社会が巨大な変動期にあったことも相まって、現代よりはるかに自由に、好きに学んで考えて、思いつきを即行動に移して、独自の生き方を貫いた人が多い気がしなくもない。進取と独立を、社会と時代が許容したのだろう。今より自由。いろんな可能性が胎動していた。
 

対照的に今の時代は、自由に学んで自由に生きることが、難しい。旅に出るにも、年金・税金・保険を払わねばならない。そもそも出来上がった学校教育の中では、周りに合わせてお勉強して、既成の中高・大学へと進むことを強いられる。こうしたレールをはみ出せないのは、見栄か臆病か周囲の圧力だ。
 

敷かれたレールに身の丈を合わせているうちに、知力・気力・生命力が最も溢れた二十代も、その半分を消化してしまう。成功も失敗も、しょせん狭いレールの軌道上にしかない。その外に広がる可能性の平野を好きに旅する人生は、誰も思い描かない。
 

もし私が、十代の頃の独創をもって自由に学問していたら、社会に認めてもらえないかもしれないが、まったく違う人生を生きられたように思う。社会的には、ただの奇人変人で終わったかもしれないが。

(略)

残された時間の中で何をするか。今の形が最終形ではあるまい。俗世に合わせてうまく回したところで空しいだけだからこそ、この形(出家)にたどり着いた。
 

俗の世界が善し(価値あり)とすることに興味はない。むしろ俗の世界の先をゆく、しかも俗の世界にも価値があるものを創って初めて、正しく生きたという納得が残る。何をすればいい? 最近よく考える。



愛媛・卯之町から佐田岬へ 
左上に映っているのは巨大なUFOではなく私の網代笠