ラベル 2025年 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 2025年 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

せめてこの世界の美しさを


翌日5日は京都・丸太町。ランチで入った食堂では、「群馬・伊勢崎41.8℃「14か所で40℃超え」のTVニュース。画面には、真っ赤に染まった日本列島。

MCの男が「いつまで続くんでしょう?」。気象予報士は「さあ」と笑ってごまかす。昼間は日陰に入れとか、冷たいものを握れとか、うわっつらの暑さ対策で尺を取っている。

テレビ番組は、いつもこの調子だ。軽薄なノリでごまかし、原因も対策も未来のことも考えない。無思考の典型。コロナ騒動中もそうだったし、あの戦争中もこの調子だったのだろう。


ondanka.JPG
原因も対策も突き詰めて考えない こういう大人にはなってほしくない


年々、気温は上昇して、制御しきれなくなりつつある。いや、すでに制御しうる臨界点を超えている。

こうして人類は滅びるんだよ。
 
原因は明らかであるにもかかわらず、 誰も本気で取り組もうとしない(自分も含む)。
 
周囲におもねって、善良なふりをして、波風立つことは見ざる聞かざる言わざるを決め込んで。 
 
700万年にわたる連綿たる種の努力が、もうすぐ水泡に帰する。
 
こうして世界は滅んでゆくんだよ。

 
近頃ずっと、この世界を末期の眼で見てしまっている。滅びるのは、自分が先か、世界が先か。
 
さすがに自分が先だとしても、世界の終わりもそう遠い未来ではないような。
 
予感のような、妄想のような、晴れない憂いを抱えて続けている自分がいる。



tasogare.jpg
せめてこの世界の美しさがわかる自分のままでいよう



2025年8月5日




鳥取境港・水木しげる記念館2

水木しげる記念館は、想像を超えた迫力とスケールだった。本人の人生が深く広すぎて、この場所はどちらかといえば大人向けであって、子供にとってはむしろ難物(理解が難しい)場所かもしれないと感じた。


水木しげる(先生)は、大正11年(1922年)生まれ。よく寝てよく食べて、伸び伸びと育った。近所の「のんのんばあ」に、迷信・伝承・死後の世界や妖怪の話など、いろんな話を聞いたとか。のんのんばあと遠出もして、いろんな場所に出かけたそうだ。

この頃の体験が決定的な影響を与えたらしい。子供特有の好奇心と観察力に加えて、伝承の物語をたっぷり聞かされて育った独特の自然観。尋常小学校時代に父に油彩絵具をもらったことがきっかけで、絵に描く技術を育てていった。

水木しげるの感性は、柳田國男や南方熊楠に似ているところがある(※)。共通するのは、自分を取り巻く外の世界への尋常でない好奇心だ。柳田は若干社会への興味が強かったために官僚を経て民俗学へ、南方は自然への興味にまかせての博覧強記(しいていうなら生物学)、水木の場合は絵による表現につながっていった。水木持ち前の観察力は、戦後の子供向け漫画よりむしろ戦争漫画や緻密な風景描写に生かされている。

※柳田と南方は生前交流があったらしい。

明治・大正の頃は、彼らのような知的野生児が大勢いた印象がある。まだ学校も親も大らかだった時代だ。今のように塾に通う必要もない。誰もが進学せねばという社会的圧力もなかった。端的に自由だったのだ。その自由さが、彼らの感性と知力を育んだ。

今の時代のように、優等生であるとか学歴を手に入れるとか近所に褒められるとか有利な職業に就くとか、そういう欲目本位の打算計算が世に蔓延する前の話だ。彼らのような知力と生命力と表現力の傑物は、今の時代には育ちにくいだろうと思う。



水木は絵の才能は早くから認められていたそうだが、勉強とコミュニケーションは、能力の欠落といってもいいすぎではないほどに、苦手だったようだ。

園芸高校も1人だけ不合格。大阪の印刷会社に入ったが、ヘマばかりですぐクビに。会社勤めも新聞配達もダメ。野生育ちの青年の脳は、他の人とは違う育ち方をしていたのだろう(今なら発達障害とレッテルを貼られたかもしれない※)。


※少し脱線するが、発達障害というレッテルを貼ったときに問題となるのは、ではどう生きていくのかという方針がどれほど見えるかという点だ。
 
水木の場合は、外の世界に適応しきれず、異物としての自分をつねに感じていながら、自分に唯一できることとして絵を選んで(しがみついて)、道を拓いた。「できないことは多々あれど、唯一できることをもってわが人生となす」という潔さがある。

もし水木やその家族が「勉強して進学して就職することが望ましく、それができなければ世間に顔向けできない」というような偏った価値観にこだわっていたら、水木は社会不適格者として引きこもるしかなかったろう。そして社会との接点を一度も見出せずに消えていったはずだ。

人というのは、何か一つできることを見つけて、どこか一か所に居場所を見つけて生きていれば十分だ。そうした生き方さえ低俗な見栄で潰しているのが、今の社会の風潮であり、一部の親の認識であるとしたら、凄まじくもったいなく、残酷で、発想が貧しいことをしていることになる。


水木が19歳の時に太平洋戦争が勃発(つくづく愚かしいことをこの国は始めてしまったものだ。戦争をしない世界線だってあっただろうに)。20歳になった水木青年も徴兵されて、南洋ラバウルへ。

爆撃を受けて左腕を切断。マラリアにかかって高熱で寝たきりに。熱帯ジャングルの中を移動する途中に、いつ死んでもおかしくない極限の状況を経験。もともと胃袋が丈夫だったことが功を奏した。よく寝てよく食べて育った幼少期が、水木の生命力を育ててくれた。

こういう部分が因縁というものだ。本人が選び取るだけでなく、時代が、環境が、人々が与えてくれるもの。のんのんばあとの出会いも、その一つ。水木の命は、見えない因縁が支えてくれていたように見えなくもない。

水木は漫画家とは別に、戦争作家としての側面も持っている。記念館の内部は、戦争に関する絵と言葉の展示が半分を占めていた。水木が遭遇した軍の上司たちがどれほど卑小な人間だったかを、水木は絵で伝えてくれている。

日本人の心性というのは、自分の中に軸がないのだ。言われたことに従う、周りがやっていることに合わせる。そうやって目立たないこと、上の立場におもねることをもって、身の安全(保身)を図る。

だからこそ、褒められれば満足してしまえるし、嫉妬して足を引っ張ろうとするし、人のミスを執拗に責め続けるし、立場を手に入れれば、我を張って、威張り散らして、立場が弱い人を追い詰めようとする。

他方、都合が悪くなると真っ先に逃げ出す、人のせいにする、忘れたふりをする。反省しない。だから成長もない。形勢が不利だと見れば、反省しているフリはする。だが見せかけだけだ。実は「空っぽ」なのだ。

あの戦争末期の人間魚雷も、特攻隊も、片道だけの燃料を積ませての出航も、そうした中身のない人間が思いついた所業だ。空洞の人格。その心に動いているのは、小さな我欲と保身のための姑息な計算。そういうふうにできているのが、日本人の心性か。

だからこそ、世間やお上に弱い。唯々諾々、付和雷同、阿諛追従を、なんの臆面もなくしてしまえる。あの戦争を、国が滅びる寸前まで続け、負けを知って本気で涙して、終戦後は駐留米軍のために女性をあてがう慰安施設を急ごしらえして“外から来たお上”に取り入るという、下品にして計算高い人間なのだ。

今の時代の同調と忖度も、同じ文化的遺伝子から来ている。日本人は考えない(すべての日本人がとは言わないが)。考える軸がない。自分さえ安全ならそれでいいという姑息さを隠し持って、表面的にはいい子・いい人を演じている。

社会が良い方向に向かおうと悪い方向に走ろうと、社会のあり方を問うことはない(空っぽだから)。代わりにどんな社会にも適応してしまう。それが日本人というものかもしれない。


ああ みんな こんな気持ちで 死んでいったんだなあ
誰に みられることもなく 誰に語ることもできず
……ただ忘れ去られるだけ……

(展示中の漫画内のセリフ)


水木が作品の中で語っていた「わけのわからない怒り」は、そうした中身のない姑息な日本人の心性に対するものではなかったか。見ているようで何も見ず、考えているようで何も考えていない。そのくせ立場や権威をかさに着て、理不尽以上の理不尽を平気で強いて、都合が悪くなると真っ先に逃げ出す。力弱き者は、そうした生き物に取り囲まれて抜け出せない。

なぜこんな目に遭っているのかまったくわからないままに、最悪の死に方を強いられ、蛆虫に食べられて、見知らぬ熱帯林の土と化した日本人が累々といた。
 
こうした不条理、いや狂気とさえいえる現実への憤り、つまりは中身のない日本人という生き物への怒りを、水木は描き出そうとした。

戦後の水木は、心に溜まった不条理の汚物を吐き出すかのように、執拗に戦争物の漫画を描いている。どの作品も絶望的に暗く、狂気かと思わせるほどの執着をもって緻密に描いている。もともと人並みはずれた観察力の持ち主だ。その眼に焼きついた戦争という名の極限は、生涯焼きついて離れなかっただろう。

救ってくれたのは、これまたのんのんばあが教えてくれた“見えない世界”だったのかもしれない。妖怪、心霊、死後の世界。その心に見ている世界が豊穣だったからこそ、狂った現実の世界でも正気を保てたのではあるまいか。


記念館の中には、小さな子供も大勢来ていた。何も記憶に残らないかもしれない。だが、映像の光や漫画の線など、何かひとつが記憶の片隅に残ってくれれば、それが将来、感性や思考へと育っていく可能性がなくはない。

無理につきあわせるのは幼い子供には酷なこともあろうが、この年頃の子供は、自分で選ぶこと以上に「体験する」ことのほうが、意味を持つ。むしろ大人が行きたい場所・見たい物に付き合ってもらう、それくらいの働きかけのほうがよい気がする。



水木の人生はさらに続く。日本に帰ってきて、残った右腕で絵を描いて、紙芝居作家から漫画家へ。最初は赤本(貸本)、読み切り、さらに月刊誌・週刊誌の連載へ――テレビと並んで紙の本が娯楽として求められていた時代だ(※)。

※今なら動画か。媒体が変わるだけで、その時代の需要に応じて自らの才を発揮するという生き方の原型みたいなものは、時代を超えて変わっていないのかもしれない。漫画が価値を持つなら、動画も価値を持つということか。動画の場合は、際限がなく、反応を連鎖させて結果的に中毒状態に陥らせるという仕掛けこそが、独特の難点なのだろうが。


39歳で見合い結婚。妻は29歳。漫画家という得体のしれない男と結婚生活を始めるとは、妻となった女性にもそれなりの因縁があったのかもしれない。夫婦円満の秘訣を聞かれて、「相手に何も要求しない 何も期待しない」と水木は語っていたそうだ。たしかに(笑)。

「テレビくん」で講談社児童まんが賞を受賞して、売れっ子漫画家に。水木プロを結成。妖怪を描き始めたのは、49歳。まもなく鬼太郎が登場する。思うに、50代に入ると現実の自分が安定してきて、過去に体験したことが“引き出し”として活かせるようになる(それだけ余裕が出てくる)のかもしれない。



もしアイデアで文化を創ることができるなら、私なら「幸せを増やす妖怪」(を考える)という文化を創るだろう。廃棄物を消化する妖怪とか、遺伝子を組み換えて病気を治す妖怪とか、養分をかきあつめて食べ物を作り出せる妖怪とか。神様となると、人は求めすぎてよくない。妖怪のような、一つのことしかできない、不器用で小回りが利く生き物のほうがよい。

どんな働きをする妖怪かを想像して、具体的な造形をもって表現する。そういう発想が身に着けば、「幸せを創る」ことを考えるようになるだろう。

学校の子供たちに取り組んでもらう。そういう妖怪が一堂に会する「妖怪フェス」をやる。どこかで実験的にやってみることはできないものか。
 

夕方に妖怪列車に飛び乗って、米子から新見を通って一気に山陽に出た。岡山、姫路を通って、京都で一泊。

この夏は、金子みすゞと水木しげるの人生に触れた旅だった。こうした出会いが一つずつ心に積み重なれば、生きることも悪くないと思える。


sayonara.JPG
空想というのは偉大な力を持っている これも生命なのだ



2025年8月4日




鳥取境港・水木しげる記念館1


朝9時過ぎ、米子駅発の妖怪列車に乗り込む。駅の階段はねずみ男で、列車はねこ娘。ホームにも鬼太郎と一つ目小僧をはじめとするオブジェが並ぶ。しょっぱなから水木ワールド全開だ。夏休みということもあって、車内は子供連れがいっぱい。


yonego1.JPG

終点・境港駅まで、どの駅にも妖怪名がついている。すねこすり駅とか、こなきじじい駅とか。精緻なイラストと解説つき。「次の妖怪は何かなあ?」と同乗の家族連れ。でも中には、すでに疲れたらしく、ぐずりだす子供も。

駅ごとの妖怪をまめに写真に撮るのは、もっぱらお母さん(平日のためか、お父さんはいない家族が多かった)。なんなら子供以上に興味がありそう(親子あるある?)。

kasabake.JPG
kijimuna.JPG
sunekosuri.JPG


ある程度思考力が育った子供なら、駅の妖怪に興味を持てるようだ。だがある駅に来て、妖怪を隠すように車窓にシェードがかかったままであることに気づいた。そのままでは妖怪が見えない。

窓際に座っているのは、二十代前半と思われる若い女性2人。米子からずっと手鏡を見つめて化粧し続けていた。窓の外の妖怪には目もくれない。

妖怪見たいなあ、開けてくれないかなあ・・という面持ちの家族連れに気づくことなく、最終駅まで一度も窓の外を見ることなく、2人は自分の顔だけを見つめていた。

境港駅も水木ワールド全開だった。駅を取り巻く妖怪のオブジェ群。駅近ビルにはお化け屋敷も。

sensei.JPG
駅前のオブジェ 漫画ってほんとに訴求力がすごい



水木しげるロードには、精巧な作りの妖怪オブジェが並んでいる。どの妖怪も造形がリアル。すさまじい想像力。

youkai1.JPG
youkai2.JPG


妖怪伝説は、どこから始まったのだろう。思いつくのは、古代のヤマタノオロチ伝説や、古事記の因幡の白兎、八百万の神々か。日本列島に棲息していた動物と、死の恐怖が作り出した幽霊と、超自然現象と、日本霊異記(平安時代)に代表される説話文学と。

説話は古代インドのジャータカ物語にさかのぼることができるから、仏教も影響を与えているのだ(※)。いろんな要素がない混ぜになって、日本独特の妖怪イメージが造られていったように思える。

※奇しくも「妖怪」という呼び名を定着させたのは、井上円了だとか。寺の息子で、のちに仏教改良運動を展開して、哲学館(今の東洋大学)を創立した思想家だ。

ちなみに西洋の場合は、一神教に由来する異物・異端の排除と、中世の未開の森を通して形成されたであろう、闇を恐怖するという自然観、この二つが影響して、あの殺伐とした幽霊(ゴースト)のイメージが形成されていったのではないか。 『グリム童話』はけっこう残酷だし、 風俗としてのハロウィーンは禍々しいし。 行き着いたのが、現代のゾンビ。

その源流にあるのは、フォビア(嫌悪)とフィア(恐怖)なのだろう。だから愛嬌がない。アニメキャラでさえ、素直な顔をしていない(アナ雪とか?)。

他方、日本の場合は、豊かな自然とアニミズムを背景としているから、動物も神々も身近な存在だ。だからみんな人間的で親しみが持てる。これが今日のゆるキャラにつながっていく。

空想上の生き物さえ、心に見えるもの(深層心理)が影響しているということか。西洋人は、日本人が作り出す妖怪や愛嬌満点のゆるキャラを真似しようにも、できないだろう。想像の原点がまるで違うからだ。

驚いたのは、あの列車の中でシェードを締め切って一心不乱に化粧をしていた女子2人組が、水木しげる記念館に入っていったことだ。

えええええ? 子供たちと同じ目的で来ていたの?? 妖怪見に来ていたのかい?? 


てっきり妖怪に飽きた地元の人かと思っていた。なぜあそこまで化粧に入れ込む必要があったのか? 妖怪級の謎といえなくもない――。


kinenkan.JPG
いよいよ到着 水木しげる記念館



2025年8月4日

日本全国行脚2025 山口仙崎・金子みすゞ美術館

翌8月3日は、朝の列車で仙崎に向かった。宿でゆっくりしたくもあったが、便が少ないので朝イチの列車に合わせるほかない。浦部からは代行バス。見知らぬ山道や海岸沿いを走る至福の時。長門市駅まで運んでもらって、そこから仙崎まで一駅。


仙崎へ2.JPG
ふと降りて浜辺を歩いてみたくなる
仙崎へ3.JPG
ここにもあった夏の青


金子みすゞ美術館へ。みすゞ(本名テル)は幼い頃から想像力が傑出していた。ひときわ弱者への共感があった。光の裏にある陰を見る。嬌声の背後に隠れた寂しさを想う――この感受性は、どんなきっかけで育っていったのだろう。3歳の時に実父が亡くなったことも影響したのだろうか。

みすず4.JPG


両親はここ仙崎で書店(金子文英堂)を経営。本が、みすゞの感性と思索を育てたか。当時は多くなかった女学校への進学組。片道40分かかる登下校の道を、一人で物語を空想しながら歩いたそうだ。

卒業後は、下関で暮らす母のもとへ(母親はみすゞが16歳の時に再婚して下関に出ていた )。みすゞは、義父が経営する書店(上山文英堂)を手伝う。

当時の下関は、海の幸を全国に送り出す港町で、不夜城とも称される賑わいを誇っていたという。 “都会”の華やぎに創作意欲を刺激されたところもあったのか、二十歳を過ぎて“みすゞ”名で童謡詞を投稿し始める。幼い頃に養子に出された実弟と、弟とは知らずに“友情”(おそらく一部恋心)を育み始めたのも、この頃からだった。

書店に奉公として入ってきた男と見合い結婚。だがこの男が慢と怠惰の生き物で、みすゞの人生は暗転する。家父長制のもと、どんなに自堕落で乱暴な男であっても、家の権力を握ることができた時代だ。当時の女性にとって、家を出て自立することは、どれほど困難だったことか。しかもみすゞのような感受性が強く聡明な女性にとって、田舎のダメ男と夫婦生活を続けることなど、極限の拷問にも等しかっただろう。

結婚した年(23歳)に、かねてからみすゞの作品を高く評価していた詩人(西條八十)に勧められて、童謡詩人会へ。のちに広く知られる「大漁」「お魚」が詩壇で発表されたのは、この頃。同年秋に長女ふさえが誕生。

みすず2.JPG
書いたのは地元・仙崎小学校の子供たち 
ふつうこんな優しさを持っていたら、生きてはいけない


その後、夫との関係にますます追い詰められて、重度のノイローゼに。娘が4歳の時、みすゞは26歳にして自死を選んだ(※山頭火の母親もそうだった・・あの頃の女性の自殺率は、今以上に高かった可能性はないか)。

生前のみすゞは、童謡詩人として注目する人も多かったというが、自死によって投稿は途絶え、次第に忘れ去られていった――。


みすゞの作品が“発掘”されたのは、みすゞが亡くなった五十年も後のこと。みすずの童謡詩を十代の頃に見つけて以来のファンだったという男性(矢崎節夫氏)が、みすゞの痕跡を探し求めて、実弟(上山雅輔氏)にたどり着き、みすゞ手書きの童謡集3冊、全512編を受け取ったことが始まりだという。

みすゞの童謡は、日陰に追いやられるか弱き命に思いやりの光を当てることで、くっきりとした明暗と陰影を浮かび上がらせる。そのコントラストの鮮やかさが、人の心をせつなく打つのだ。広がっていくことは、自然な流れだ。まもなく学校の教科書にも掲載され、知らない人はいないといっていいほど著名な童謡詩人になった。

みすゞの生涯は、幼い頃の孤独からスタートしたように思えなくもない。寂しさゆえの弱者への想像力と、その思いを表現する言葉の力と。童謡詩は、幼い頃の自身の思いの最も自然な発露だっただろう。

自分が最も自分らしくいられた時期に書き表した童謡詩集を、親友でもあった実弟に託して、結婚によって予期せぬ苦悩を背負わされて、憔悴しきって自死を選んで――。

もしみすゞのファンだったという男性が探さなかったら、そして実弟が詩集を失くしていたら、みすゞの哀切に満ちた詩が脚光を浴びることは、永久になかった。小さな漁村で哀しく自死した名もなき女性として、永遠に埋もれていたことだろう。

なんというか、みすゞの生涯そのものが、土に埋められた金魚や、大漁の夜に海の中でひっそりと仲間のとむらいをした鰯に通じる気がする。みすゞ自身が陰の中で哀しい輝きを放つ命の一つだった。
 

みすず1.JPG


みすゞは幸運にも見出されたけれども、この世界には、人知れず消えていった、哀しく、せつなく、美しい命が無数に存在するのだろう。そうか、そうした見えない輝きが存在することを知り、その輝きを見つけたいと願ってやまない心の持ち主こそが、詩や文学に傾倒したり、旅し続けたりするのだろうか。

みすゞのような言葉の力がなくても、輝きを放っている命は、この世界に溢れているに違いない。そうした輝きは、言葉に紡ぐ必要さえない。その時、その場所で、笑ったり、涙したり、美しい景色を眺めたりして、心が動いたその瞬間に、美しい輝きが刹那の光を放つ。

この世界はきっと、そうしたキラキラした輝きに満ちていて、ただその輝きは、もしかしたら本人も気づかず、まして他の誰かが見つけることもなく、光を放って瞬時に消えるということを、無限無数に繰り返しているのかもしれない。

そんな奇跡のすべてを目の当たりにすることは当然できないけれど、それでもときおり、誰かが放っている輝きを見つけることがある。そんなときは単純に見惚(と)れてしまうし、こんな美しいものがこの世界には溢れているのだという思いを新たにして、輝きを見つける旅に出ようと改めて思える。

仙崎への道中で見た景色も、みすゞの切ない生涯も、この世界に溢れる無数の輝きを思い出させてくれる絶好のきっかけになった。よい旅をしたものだとつくづく思う。



記念館の中で、小4の女の子とおばあちゃんと再会。仙崎への電車の中で一緒だった二人。女の子は東京から来たという。おばあちゃんは元気だが、女の子は退屈そう。みすゞの言葉は少し早かったかもしれないね。いつかこの日を思い出して、再び仙崎を訪れることもあるのだろうか。

金子みすゞ美術館のイラストは、長門市在住の尾崎眞吾(おざき しんご)氏が手がけているという。

みすず6.JPG
透明感と色彩の豊かさが共存する画風 純粋にきれい 原画はもっときれい




16時過ぎの列車に乗って、山陰本線で鳥取・米子に向かう。影を増す海岸線に並ぶ家々。いろんな場所に、いろんな暮らしがある。途中下車して歩いた、人影まばらな町並みも好(よ)き。

列車を乗り継いで、米子に着いたのは23時過ぎ。7時間のローカル列車の旅。車窓の景色も、車内の人々の姿も眺めることができるので、退屈しない。腰痛になることもない。気力、体力ともにまだ大丈夫。


碧い海.JPG
仙崎の碧い海 きっとみすゞには真昼の青さより夜の漆黒に潜む命のほうが身近だったのかもしれない




2025年8月3日
 
 


日本全国行脚2025 博多から下関へ


船旅2日目は、船上でゆっくり過ごす。

2日目1.JPG

2日目2.JPG
テレビでは刑事ドラマの再放送・・岡江久美子さんが主演。

2日目4.JPG
どこで見ても美しい夕日


門司港に朝5時半に到着。ゆっくりと船着場に入っていく船の看板に上がると、ほの明るむ東雲の空が見えた。

フェリー5.JPG

船旅は悪くない。時間の余白が多い。気が赴くままに仕事したり、デッキに上がって海原を眺めたり。恋愛中のカップルにもお勧めだし、失恋した後の傷心旅行にも最適・・というまったく縁のない妄想を勝手にしちゃったりした。

今回のフェリーの弱点は、送迎バスがないこと。相乗りタクシーで門司駅まで。予約券一人440円。でも同乗客は私も含めて3人しかおらず、メーターは駅についた頃には3000円近くに(けっこう距離があった)。

運転手さん、朝5時すぎにユニフォーム着て、タクシーで来て(もう一台には一人だけ乗っていった)、正規運賃を下回る額。なんだか申しわけない。このせつなさも、旅につきもの。


JR門司駅から博多まで。地下鉄で天神まで行って、じょいふるで朝食(船の中で一風呂浴びればよかった)。2階クーラーが故障中とかで一階だけ。徹夜明けらしき若い男女が上機嫌で歌を歌い始めて、店員の老婦人に叱られている。いや、元気だ、頼もしい(笑)。

昼過ぎまでお世話になって、歩いて会場施設へ。

はて何人来てくれるか、でも一人でも来る人がいるなら続けなければという思いで、東京ではやってきた。東京から博多まで足を運んで参加者数名というのはいささか残念と思っていたが、予想以上に多くの人が来てくれた。普通の規模の勉強会になった。


博多.JPG
毎回話題が変わるのも面白いところ


終了後は、希望者一人ずつ面談。オーディブルを聞き始めたばかりという女性も、今日は方に向かう途中でイベント検索したらたまたま出て来て、予定変更してやってきたという女性も。今年もやってよかった、と思う。

終わって、再び一人に戻る。とたんに街の景色が“凡庸”になる不思議。物欲がないので、豪華なビルも賑やかしい店の装いにも、ぜんぜん関心が湧かないのだ。ひとまず博多駅に戻って、JRで西の方に行けるところまで行く。

西に急ぐ.JPG
西へと急ぐ


夜9時半過ぎに下関に到着。下松(くだまつ)行きの接続列車があった。昔バイトで教えていた美術学校の学生が下松出身だったと、この駅に来るたびに思い出す。結局地元の下松に戻ったのだが、もう三十年近く経っている。どんな大人になっているのだろう。探しに行きたくなる。

前回の旅でもいただいた定食屋がギリギリ開いていたので、鯨汁定食をいただく。最後の客だが、ちゃんと調理して熱々にしてくれた。

下関.JPG
すきっ腹には熱い鯨汁が沁みます


この一帯も、かつては不夜城と言われた港町だったそうだが、人も減って、すっかり寂しくなってしまったそうだ。店の周りには、色を失って久しい商業施設が、夜の帳の中に音もなく沈んでいる。鮮やかな色が褪せて行って、陰の色が増えていく。日本中どこに行っても同じ。今のうちに目に焼きつけておきたい。

駅近くの宿に泊まる。野宿する予定だったが、5千円分の贅沢と堕落を選んでしまった。潮の匂いを嗅ぎながら夜を過ごせたであろうのに。出家たる私も弱くなってしまったものだ。


下関3.JPG
夜の下関 前回来た時は腹痛に苦しむ20代の女性と遭遇して救急車を呼んだのだった あの人もどこかで暮らしているのだろうか


2025年8月上旬


未来の世界 日本全国行脚2025

 
今回の目的地は博多。東京からは新幹線が早いが、交通費がかさむ。飛行機は性に合わない。改悪された18切符だと、3日または5日の間に博多に着かねばならない。しかも移動中の車内では何もできない。バッテリーが切れたらPCもスマホも使えないし、本を読むのは目が疲れるし、運ぶのは重い。途中の宿泊に費用もかかる。

こうした事情を考慮して最後に選んだのは、フェリーの旅。東京有明から北九州・門司港へ。2泊3日の旅。船内なら電源の心配は不要。原稿を書くか、本を読むか。値段も陸路より安く浮く。

東京港フェリーターミナル行きのバスに乗る。八重洲、銀座、晴海を通って、有明ゾーンへ。途中、タワーマンションの群れ(広大な敷地はまだ造成中)やレインボーブリッジや東京ビックサイトや、その他何が入っているのかナゾの近未来的な建造物の数々を通り抜ける。都市工学の粋をきわめて設計したであろう道路とモノレールと地下鉄と高層ビルが華麗に交錯する街並み。

タワマン.JPG
これでも開発の初期段階にすぎないらしい


メタル色に輝くビルの一階がガラス張りのジムになっていて、マシンを使ってジョギングしているお金持ち(じゃないかな、たぶん)の姿が見える。うねるような湾曲形状の巨大なビルも。もうSFの世界だ。スターウォーズに出てくる惑星コルサントの実写版。
 
バスの窓から未来の世界を眺めながら考えるのは、「あの生垣の間なら野宿できそうだな」というようなこと(笑)。通勤する人たちを見上げるホームレスの目だ。

いやこんな世界もあるんだ~(すごい)という新鮮な感動。おのぼりさんと出家というダブルの目線で見上げる世界。フェリーに乗る前に元を取った気がして大満足(笑)。


rainbowbridge.JPG
レインボーブリッジが見える 未来都市



いざ、乗船。一人で乗り込む人も、小さな子供連れの家族もいる。ペットと過ごせる個室もあるそうだ。

私が借りたのは、カプセルホテル的な共同スペース。小さなブース(寝床)があって、電源もあって。ラウンジには机も自販機もあるから、時間を過ごすのに不自由はない。浴場やシャワールームもあるし、トイレはウォシュレット付きの最新設備。かなり贅沢な造り。時代は進んだものだ。でも、ほんとの豪華客船は、この船の比ではないらしい。これまた別の世界。

舟は東京ゲートブリッジの下を潜って、海原を進む。有明、晴海、築地の明かりを一望できる。宝石を並べたかのような輝きぶり。


出発.JPG
さあ出航!

出発2.JPG
東京の夜景を楽しめる絶好の出航時刻(午後7時)

東京ゲートブリッジ.JPG
東京ゲートブリッジを潜る



羽田空港に発着する飛行機が、夜の空にライトを明滅させながら行き来するのが、頭上に見える。海を走る風と、潮のにおいと、陸のきらめきと、夜空を飛ぶ未知の飛行船と。今が西暦3000年と言われても信じてしまうであろう未来の景色。あれは土星観光に向かう船で、あれは恒星間旅行に向かう宇宙船――そんな時代も、いずれやってくるのだろう。
 
平和と繁栄が続く未来。千年前の人類は戦争ばかりしていた。そんな歴史もあった。そう言えるような時代が、いつか来るのだろうか。
 

宇宙船.JPG
宇宙飛行船といわれても信じてしまうであろう完璧な未来の光景
 


2025年7月末

『怒る技法』オーディオブック配信開始!


いよいよ『怒る技法』オーディオブックの配信が始まりました(2025年8月1日)。
 

『反応しない練習』『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』に続く、

著者・草薙龍瞬による朗読シリーズ、第4弾です。
 

いつものように、ついついサービス精神(←慈悲の心の世俗バージョン)で、笑える(←本人は後悔する)演出や、ボーナストークの特典もついています。楽しくて役に立つ、充実のトラック。

本とは違う臨場感が味わえるはず。活字だけでは読み取れない深いニュアンス(意味合い)も、声を通してなら伝わります(聴く側からすれば、「そうか、そういうところを伝えたかったのか」という)。


足かけ1年半以上・・ずいぶん時間がかかりました。手がけてくださった皆さま、ありがとう!

ここからアクセスできます(←クリックしてください: 試し聴きもできる様子です^^)

いざ発進(配信)!


怒っていい。でも正しく

今の時代に伝えなければいけないことを、
著者一杯の思い(応援)をこめて



2025・8・1
 

言葉にならない時間

この季節になると、多くの人たちと同様に、「人類は滅びるのではないか」という懸念がよぎり始める。それくらいの猛暑だ。

今は、茹でガエル現象の途中。そのうち大気が沸騰して、水が枯渇し、農作物が枯れ、何十億人もの人間が、熱死するか餓死する。

それくらいの温暖化が顕著に進んでいるのに、奇妙なことに、誰も文明のシステムを見直そうとしなくなったように見える。人の価値観も行動様式も、気候変動が始まる前と変わらない。むしろ退化したかもしれない。大量消費と廃棄と炭素排出。まるで何も問題が起きていないかのように、人々は環境の変動に無関心になった。ひと昔まえのほうが「このままでは危うい」という警告のシグナルが強く点灯していた気がする。

ミクロの人々が見ているのは、どこにいてもスマホ。小さな画面以外は「どうでもいい」こと。度を増す高温に嘆息を吐きながらも、気にしているのは自分にとっての不快指数だけ。

マクロで見れば、気候変動に取り組もうという国際的機運は、ほぼ消失した感がある。どこを見ても、戦争か武力衝突。ばかすかミサイルを撃ち込んで、破壊だけでなく、その分大量に酸素を消費し、炭素を大量に排出し続ける。ウクライナ戦争だけでも排出量は爆上がり。大気の高温化に拍車をかけているはずだが、気にかけるという発想さえ枯れつつある気もする。

こんな世界が、あと百年、千年と続くと、誰が楽観できるだろう。

憎しみ合って殺し合うことを人類がやめようとしなくても、そうした愚行を可能にする地球環境そのものが破綻するかもしれない。このまま高熱化が進めば、近い将来、どうしたって生存不可能になる時期が来る。地球の大気が茹で上がる。そんな気がしなくもない。

外の環境に関心を持たなくなった時が、ひとつの文明の転換期なのかもしれないとふと考えてしまう。



ひるがえって個人的な話題といえば、毎年夏になると、生活のパターンを微調整する(滅びゆく世界の中でも、個人の生活自体はほとんど変わらない。私もまた茹でガエルの一匹であるには違いない)。

まずは定期券を買う。これは昨年から始めたこと。で、お目当ての場所に通う。電車の中は空調が効いている。快適な読書空間を満喫する(茹でガエルは実に罪深い。結局、自分のことしか考えないし、動こうともしないのだ)。

地上に出る。車窓の外に、夏の青い空が広がっている。




夏の光と大気の暑さと。狂暑とさえいえる暑さではあるが、これもまた今年一度きりの夏の姿ではある。なお道を歩く時は、多少の暑さには目をつむり、夏の風情に心の感度をチューニングする。これぞ夏だ、ということをしっかり感じ取る。

電車の外に、巨大な東京スカイツリータワーがそびえ立っているのが見える。あのタワーは、私がいなくなった後も、百年後も、同じ姿で屹立しているのだろう。今見ているのは、未来でもあるわけだ。



80年前の大空襲で亡くなった人たちも、焼け野原に立ち尽くしていた人たちも、その後一度も戦火を交えなかった東京が、ここまで美しく復興して、こんなにもバカでかいタワーが出現するとは、夢想だにしなかっただろう。

戦争さえしなければ、街を破壊しなければ、これだけの繁栄が現れる。変わらない世の中への不平不満は続くにしても、退屈ではあっても、やはり平和のほうがいいに決まっている。激動なんてなくていい。平凡で少し退屈なくらいの日常が、百年、千年と続いていくほうが、はるかによいはずである。

人は人としての生涯をまっとうできるだけで十分なのだろうと思う。生きて、働いて、遊んで、ときには退屈をもてあまして、いっとき家庭を持って、新しい命を育てて、時期が来たら静かに身を退く。それだけで十二分。激動の十年よりも、退屈凡庸な百年のほうが、きっと価値はある。

この世界は、茹でガエル一匹いなくなっても、きっと続いていくのだろう。果てしなく遠い未来には、人類もこの地球も宇宙にも、やがて必ず終わりが来て、その後は果てしない虚無が続く定めだとしても、人類という種は、もうしばらくは続く可能性が残っている。

今見ているこの夏の景色は、あの戦争を生き延びた人にとっての未来に当たる。80年分の過去を振り返って平和の証を見届けていることにもなる。今を生きる自分なき後の未来を見ている部分もある。

未来でもあり、過去でもあり、今でもある。今見えるのは、純粋に美しい青と光と、夏らしき暑さ。いろんなものを見ている今が、ここにある。言葉できれいにまとめることのできない「何か」。

きっと本当に美しく、せつなく、愛おしいものは、言葉にならない。「生きている」としかいえないもの。生きているとは、そういう時間。今がその時。


夕暮れの隅田川 いつもの景色のはずだが、未来を見ている気にもなる



2025年7月末