翌朝は中津から特急に乗って熊本阿蘇へ。法事のため。
どの場所での法事も同じことだが、やはりその土地や一族の業というものを感じ取って、その業を断ち切るための理解というものを明らかにすることが、基本になる。
“見える”ものは、伝えることもあるし、今後の因縁に委ねようということで秘して語らないこともある。
業の力が強いと、その影響は一代では終わらず、次の代、さらに子々孫々へと続いていくこともある。
だが救いでもあるのは、人間というのは凄まじく生命力が強くて、その未来に向かう力は、負の業の力にも打ち勝ちうるほどに強力であることも多いことだ。
つまりは、負と正、陰と陽、悪と善というのは、どの時代・どの場所・どの一族においても、せめぎ合っているものだが、後者のほうが勝っていくことも、さほど珍しくない確率で起こるということだ。
苦しみをもたらすものが悪の業だとしたら、幸福をもたらすものが、善の業である。
どうした場合に善の業が育っていくかといえば、代表的なものを挙げれば、子の幸せを願う親の純粋な愛情であり、悪を繰り返さないための忍耐や自己犠牲だろうかと思う。
「子供にだけは苦しんでほしくない」
「この業を子に受け継がせたくない」
「この苦しみは私の代で終わらせる」
といった強い思いを持てる誰かが出てきたときに、悪の業を善の業が上回る可能性が出てくる。
悪の業は根強いが、それでも誰かの愛情や犠牲が間に入ることで、人柱とでもいおうか、その人が悪業を抱えたまま土に帰ってくれたことで、そのうえに善の業が生命を宿らせることがある。
未来に生きる人たちは、かつて自分たちの一族に“人柱”があったことなど想像しないかもしれない。だが、その人柱があったおかげで、その一族に幸せが宿る可能性が生まれるのである。
◇
悪の業を長引かせる原因の一つとなりうるのは、その業を持った人間に執着することによって、負の業を繰り返す可能性を宿してしまうことだ。
その可能性は、自分の人生に出てくるとは限らない。別の部分に、想像もしなかった意外な場面で、不意に現れることがある。悪の業が未来への可能性を枯らし始めるのだ。
最も正しい選択は、悪は悪として冷徹に理解して、斬って捨てることだ。親として子としての情は要らない。
肉親だからこそ執着して、さまざまな“夢”を見てしまうものだが、その夢こそが、悪を悪として見抜く心の眼を濁らせて、代わりに悪の業が生き延びる土壌を育ててしまうこともある。
難しいことは百も承知しているが、最も望ましいのは、「親を親として見ない」態度だ。ただの人として見る。そもそも血のつながりなど、生物学的も存在しないのだから(母親の血が胎児に流れ込むわけではないのだから)、親だった人間をあえて他人と見て、一切夢を見ず、執着せず、自分がその人の子であるという思い(妄想)をも切って捨てて、ただの人間として見ることが、正解なのである。
いわば、善も悪も、いったん自分の外に置いてしまうこと。そのことで自分が自由になれる。業さえも選べるようになるのである(かなり難易度の高い話ではあるが)。
悪は悪。だが遠い悪であって、今の自分には関係がない――それくらいに思える境地に立てるならば、あとは前を向いて生きていくだけで、悪の業が希薄化していく可能性も出てくる。
くれぐれも執着しないことだ。
今回出会った土地の人が、「私は、この土地が好きなんです」と言っていた。これ以上ない正解だ。
その土地が自分にとって最も愛おしいと思えるなら、その土地に骨をうずめる価値はある。それだけで十分だ。
結局は、その土地・その家でどんな時間を過ごすかは、まったく新しい選択であり、創造であり、挑戦ということになる。過去も、負の業も、自分が執着さえしなければ、力を持たない。
求められるのは、執着を断ち切る決意と、執着を見極める心の眼(智慧)ではあるが、その部分は、謹んで学んでゆかれよ、と思う。
豊後竹田に一泊。この土地は、秘境を思わせる不思議な雰囲気に包まれている。車や鉄道が入っていない時代には、まさに幽玄の土地だったように思う。宿も温泉もよし。
早朝に中津から阿蘇へ どこか懐かしいこの風景が未来にも続くことを願う
豊後竹田の風景 せせらぎが山肌を縫って人家の足元から流れ出てくる この表情の豊かさが面白い
駅の背に滝が流れ落ちる 独特の景観
温泉でひと息 たいそうよき湯であった 極楽、極楽
2025年11月13日