日本全国行脚2025 山口仙崎・金子みすゞ美術館

翌8月3日は、朝の列車で仙崎に向かった。宿でゆっくりしたくもあったが、便が少ないので朝イチの列車に合わせるほかない。浦部からは代行バス。見知らぬ山道や海岸沿いを走る至福の時。長門市駅まで運んでもらって、そこから仙崎まで一駅。


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ふと降りて浜辺を歩いてみたくなる
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ここにもあった夏の青


金子みすゞ美術館へ。みすゞ(本名テル)は幼い頃から想像力が傑出していた。ひときわ弱者への共感があった。光の裏にある陰を見る。嬌声の背後に隠れた寂しさを想う――この感受性は、どんなきっかけで育っていったのだろう。3歳の時に実父が亡くなったことも影響したのだろうか。

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両親はここ仙崎で書店(金子文英堂)を経営。本が、みすゞの感性と思索を育てたか。当時は多くなかった女学校への進学組。片道40分かかる登下校の道を、一人で物語を空想しながら歩いたそうだ。

卒業後は、下関で暮らす母のもとへ(母親はみすゞが16歳の時に再婚して下関に出ていた )。みすゞは、義父が経営する書店(上山文英堂)を手伝う。

当時の下関は、海の幸を全国に送り出す港町で、不夜城とも称される賑わいを誇っていたという。 “都会”の華やぎに創作意欲を刺激されたところもあったのか、二十歳を過ぎて“みすゞ”名で童謡詞を投稿し始める。幼い頃に養子に出された実弟と、弟とは知らずに“友情”(おそらく一部恋心)を育み始めたのも、この頃からだった。

書店に奉公として入ってきた男と見合い結婚。だがこの男が慢と怠惰の生き物で、みすゞの人生は暗転する。家父長制のもと、どんなに自堕落で乱暴な男であっても、家の権力を握ることができた時代だ。当時の女性にとって、家を出て自立することは、どれほど困難だったことか。しかもみすゞのような感受性が強く聡明な女性にとって、田舎のダメ男と夫婦生活を続けることなど、極限の拷問にも等しかっただろう。

結婚した年(23歳)に、かねてからみすゞの作品を高く評価していた詩人(西條八十)に勧められて、童謡詩人会へ。のちに広く知られる「大漁」「お魚」が詩壇で発表されたのは、この頃。同年秋に長女ふさえが誕生。

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書いたのは地元・仙崎小学校の子供たち 
ふつうこんな優しさを持っていたら、生きてはいけない


その後、夫との関係にますます追い詰められて、重度のノイローゼに。娘が4歳の時、みすゞは26歳にして自死を選んだ(※山頭火の母親もそうだった・・あの頃の女性の自殺率は、今以上に高かった可能性はないか)。

生前のみすゞは、童謡詩人として注目する人も多かったというが、自死によって投稿は途絶え、次第に忘れ去られていった――。


みすゞの作品が“発掘”されたのは、みすゞが亡くなった五十年も後のこと。みすずの童謡詩を十代の頃に見つけて以来のファンだったという男性(矢崎節夫氏)が、みすゞの痕跡を探し求めて、実弟(上山雅輔氏)にたどり着き、みすゞ手書きの童謡集3冊、全512編を受け取ったことが始まりだという。

みすゞの童謡は、日陰に追いやられるか弱き命に思いやりの光を当てることで、くっきりとした明暗と陰影を浮かび上がらせる。そのコントラストの鮮やかさが、人の心をせつなく打つのだ。広がっていくことは、自然な流れだ。まもなく学校の教科書にも掲載され、知らない人はいないといっていいほど著名な童謡詩人になった。

みすゞの生涯は、幼い頃の孤独からスタートしたように思えなくもない。寂しさゆえの弱者への想像力と、その思いを表現する言葉の力と。童謡詩は、幼い頃の自身の思いの最も自然な発露だっただろう。

自分が最も自分らしくいられた時期に書き表した童謡詩集を、親友でもあった実弟に託して、結婚によって予期せぬ苦悩を背負わされて、憔悴しきって自死を選んで――。

もしみすゞのファンだったという男性が探さなかったら、そして実弟が詩集を失くしていたら、みすゞの哀切に満ちた詩が脚光を浴びることは、永久になかった。小さな漁村で哀しく自死した名もなき女性として、永遠に埋もれていたことだろう。

なんというか、みすゞの生涯そのものが、土に埋められた金魚や、大漁の夜に海の中でひっそりと仲間のとむらいをした鰯に通じる気がする。みすゞ自身が陰の中で哀しい輝きを放つ命の一つだった。
 

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みすゞは幸運にも見出されたけれども、この世界には、人知れず消えていった、哀しく、せつなく、美しい命が無数に存在するのだろう。そうか、そうした見えない輝きが存在することを知り、その輝きを見つけたいと願ってやまない心の持ち主こそが、詩や文学に傾倒したり、旅し続けたりするのだろうか。

みすゞのような言葉の力がなくても、輝きを放っている命は、この世界に溢れているに違いない。そうした輝きは、言葉に紡ぐ必要さえない。その時、その場所で、笑ったり、涙したり、美しい景色を眺めたりして、心が動いたその瞬間に、美しい輝きが刹那の光を放つ。

この世界はきっと、そうしたキラキラした輝きに満ちていて、ただその輝きは、もしかしたら本人も気づかず、まして他の誰かが見つけることもなく、光を放って瞬時に消えるということを、無限無数に繰り返しているのかもしれない。

そんな奇跡のすべてを目の当たりにすることは当然できないけれど、それでもときおり、誰かが放っている輝きを見つけることがある。そんなときは単純に見惚(と)れてしまうし、こんな美しいものがこの世界には溢れているのだという思いを新たにして、輝きを見つける旅に出ようと改めて思える。

仙崎への道中で見た景色も、みすゞの切ない生涯も、この世界に溢れる無数の輝きを思い出させてくれる絶好のきっかけになった。よい旅をしたものだとつくづく思う。



記念館の中で、小4の女の子とおばあちゃんと再会。仙崎への電車の中で一緒だった二人。女の子は東京から来たという。おばあちゃんは元気だが、女の子は退屈そう。みすゞの言葉は少し早かったかもしれないね。いつかこの日を思い出して、再び仙崎を訪れることもあるのだろうか。

金子みすゞ美術館のイラストは、長門市在住の尾崎眞吾(おざき しんご)氏が手がけているという。

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透明感と色彩の豊かさが共存する画風 純粋にきれい 原画はもっときれい




16時過ぎの列車に乗って、山陰本線で鳥取・米子に向かう。影を増す海岸線に並ぶ家々。いろんな場所に、いろんな暮らしがある。途中下車して歩いた、人影まばらな町並みも好(よ)き。

列車を乗り継いで、米子に着いたのは23時過ぎ。7時間のローカル列車の旅。車窓の景色も、車内の人々の姿も眺めることができるので、退屈しない。腰痛になることもない。気力、体力ともにまだ大丈夫。


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仙崎の碧い海 きっとみすゞには真昼の青さより夜の漆黒に潜む命のほうが身近だったのかもしれない




2025年8月3日