熊本阿蘇・大分豊後竹田


翌朝は中津から特急に乗って熊本阿蘇へ。法事のため。

どの場所での法事も同じことだが、やはりその土地や一族の業というものを感じ取って、その業を断ち切るための理解というものを明らかにすることが、基本になる。

“見える”ものは、伝えることもあるし、今後の因縁に委ねようということで秘して語らないこともある。

業の力が強いと、その影響は一代では終わらず、次の代、さらに子々孫々へと続いていくこともある。

だが救いでもあるのは、人間というのは凄まじく生命力が強くて、その未来に向かう力は、負の業の力にも打ち勝ちうるほどに強力であることも多いことだ。

つまりは、負と正、陰と陽、悪と善というのは、どの時代・どの場所・どの一族においても、せめぎ合っているものだが、後者のほうが勝っていくことも、さほど珍しくない確率で起こるということだ。

苦しみをもたらすものが悪の業だとしたら、幸福をもたらすものが、善の業である。

どうした場合に善の業が育っていくかといえば、代表的なものを挙げれば、子の幸せを願う親の純粋な愛情であり、悪を繰り返さないための忍耐や自己犠牲だろうかと思う。

「子供にだけは苦しんでほしくない」
「この業を子に受け継がせたくない」
「この苦しみは私の代で終わらせる」

といった強い思いを持てる誰かが出てきたときに、悪の業を善の業が上回る可能性が出てくる。

悪の業は根強いが、それでも誰かの愛情や犠牲が間に入ることで、人柱とでもいおうか、その人が悪業を抱えたまま土に帰ってくれたことで、そのうえに善の業が生命を宿らせることがある。

未来に生きる人たちは、かつて自分たちの一族に“人柱”があったことなど想像しないかもしれない。だが、その人柱があったおかげで、その一族に幸せが宿る可能性が生まれるのである。



悪の業を長引かせる原因の一つとなりうるのは、その業を持った人間に執着することによって、負の業を繰り返す可能性を宿してしまうことだ。

その可能性は、自分の人生に出てくるとは限らない。別の部分に、想像もしなかった意外な場面で、不意に現れることがある。悪の業が未来への可能性を枯らし始めるのだ。

最も正しい選択は、悪は悪として冷徹に理解して、斬って捨てることだ。親として子としての情は要らない。

肉親だからこそ執着して、さまざまな“夢”を見てしまうものだが、その夢こそが、悪を悪として見抜く心の眼を濁らせて、代わりに悪の業が生き延びる土壌を育ててしまうこともある。

難しいことは百も承知しているが、最も望ましいのは、「親を親として見ない」態度だ。ただの人として見る。そもそも血のつながりなど、生物学的も存在しないのだから(母親の血が胎児に流れ込むわけではないのだから)、親だった人間をあえて他人と見て、一切夢を見ず、執着せず、自分がその人の子であるという思い(妄想)をも切って捨てて、ただの人間として見ることが、正解なのである。

いわば、善も悪も、いったん自分の外に置いてしまうこと。そのことで自分が自由になれる。業さえも選べるようになるのである(かなり難易度の高い話ではあるが)。

悪は悪。だが遠い悪であって、今の自分には関係がない――それくらいに思える境地に立てるならば、あとは前を向いて生きていくだけで、悪の業が希薄化していく可能性も出てくる。

くれぐれも執着しないことだ。

今回出会った土地の人が、「私は、この土地が好きなんです」と言っていた。これ以上ない正解だ。

その土地が自分にとって最も愛おしいと思えるなら、その土地に骨をうずめる価値はある。それだけで十分だ。

結局は、その土地・その家でどんな時間を過ごすかは、まったく新しい選択であり、創造であり、挑戦ということになる。過去も、負の業も、自分が執着さえしなければ、力を持たない。

求められるのは、執着を断ち切る決意と、執着を見極める心の眼(智慧)ではあるが、その部分は、謹んで学んでゆかれよ、と思う。

豊後竹田に一泊。この土地は、秘境を思わせる不思議な雰囲気に包まれている。車や鉄道が入っていない時代には、まさに幽玄の土地だったように思う。宿も温泉もよし。



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早朝に中津から阿蘇へ どこか懐かしいこの風景が未来にも続くことを願う

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豊後竹田の風景 せせらぎが山肌を縫って人家の足元から流れ出てくる この表情の豊かさが面白い

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駅の背に滝が流れ落ちる 独特の景観

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温泉でひと息 たいそうよき湯であった 極楽、極楽



2025年11月13日





大分中津 福沢諭吉記念館

門司から中津に向かう。車内で、通学途中の高校生たちと一緒になる。9割方はスマホ、1割は参考書。スマホは常習化した感がある。

スマホのない空白の時間を体験している世代としては、ほんとにこれでいいのかなという疑問もなくはないのだが、

片や参考書を眺めている殊勝な高校生たちの姿を見ると、中身のなさそうな勉強に時間を注いでも、あまり実のあることはアタマに残らないだろうし、未来の足しになるとも思えない。

要するに、スマホも参考書も、正直意味がないのではと思えてしまう。

とはいえ、スマホをダラダラ使っても、知能は育たないであろうから、こうした時間を延々と過ごして脳が溶けていった(思考力が劣化していった)先に、どんな人生が、そしてどんな社会が待っているのかは、今の時点ではわからない。せめて実のある時間の過ごし方について提案するくらいのところまでは、やってみたいものだと思う。



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中津駅を降りると、福沢諭吉先生の言葉が
使えない学問には意味がないということを仰っておられます

 
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福沢諭吉旧居 移築したそうです


下級藩士に当たる諭吉の父は、米を管理する役人として大阪に出向していたが、諭吉が2歳の時に亡くなった。その後、母と兄と3人の姉一緒に中津に戻ったが、身分が邪魔したこともあって、藩校にも行けなかった。

後家さんとなった母のお順も、何かと噂を立てられたかもしれない。だが道を歩く浮浪者のような女性を呼び寄せて、頭の虱を取ってあげたうえに、取らせてもらったお礼にと握り飯をふるまったそうだ。

無理解な田舎の人々に囲まれながらも、善良な人間でありつづけた。これこそ諭吉の独立自尊の原点かも?

諭吉は、周囲の大人たちの偏見や狭小さに、さぞ悔しい思いをしたのろう。だからこそ理にかなった学問に憧れたし、のちにすべての人が平等にして自由だという近代の思想を、自分の言葉として語ることができたのかもしれない。

諭吉は家父長制にも批判的で、女性の地位向上にも理解を示した。弱者の視点を持つ、時代の先を行く人、本当の頭の良さを持った人だったと見た。



諭吉が腐ることなく知力を伸ばせたのは、地元で照山先生(白石照山)に出会えたことが大きかったらしい。照山先生は二十代後半に江戸に出て、昌平黌(昌平坂学問所)で学び、29歳で中津に戻って私塾を開いた。30代からは藩校・郷校で教えて、明治の学制移行後は、57歳にして再び私塾を開いている。

照山先生も下級藩士で反骨の人。藩上層部にモノ申して追放されたとか。諭吉に通じる部分かもしれない)。

出会った時は、諭吉は14歳、照山先生34歳(若い)。多感な年頃に諭吉が触れた「学問」は衝撃だったろう。

察するに当時の教育というのは、教える側の情熱と知識と、いかに時代を切り開いていくかという思考が備わっていた気がする。知識を得て、考えて、行動に移す。

私塾を開くのも、政治の世界に打って出るのも、当時は一本の線の上にあった。思想という線である。


思想に目覚めた諭吉は、19歳で長崎に出向いて蘭学と出会い、さらに大阪・適塾に赴いて、緒方洪庵のもとで蘭学を掘り下げて、25歳でアメリカへ。広大なユーラシア大陸も旅している。どんな景色を各地で見ただろうか。

記念館に諭吉のノートが展示されていたが、文字も図もきわめて緻密。諭吉は 『蘭学事始』 以外にも多くの書物を筆写して学んだそうだが、「書き写す」ことは集中と銘記(記憶)に直結する。書いて覚えるという基本の積み重ねが、諭吉の知力を育てたのだろう(緻密に書く時間を教室でも設定することだ。緻密に、ていねいに、心を尽くして書き写す。まずは5分)。

31歳で出した『西洋事情』が15万部のベストセラー。当時の人口は4000万人弱だから、今の感覚でいえば50万部くらいの大ベストセラーか。33歳で復活させた私塾が、のちに慶応時義塾大学になる。37歳で著した『学問ノススメ』は、300万部の超ベストセラー。社会現象といえるスケール。

福沢諭吉を主役にすえれば、壮大な大河ドラマが作れそうなのに、まだ実現していないという。諭吉の人間性・感情面を掘り起こしきれていないことも、一因かもしれない。


歴史上の人物には、その魅力が埋もれたままの人がまだ相当数残っているのではないか。人間として、想像を尽くして、その人物の内面に迫らないと、本当の姿は見えてこない。

その人の感情、人格、感性、陰影、反骨といった個性こそが思想を作る。本人には突き動かされるエネルギーがあったはずだが、時を経て歴史上の人物として眺めるだけの後代の人たちは、本人が成し遂げた形だけを見て評価を下す。

あれやこれやをやった偉い人という位置づけで、高いところに祀り上げて満足してしまう。そうして本人の熱量も思想も抜け落ちて、一見立派な形だけが残ってしまう。

未来の人々は、その形のみを見て、本人を知った気になってしまう。その人の心の奥を想像しようとしない。未来を見据えて突き進んでいたであろう本人のことを、過去形で眺めてしまうのだ。急速にその人が”化石”と化していく。

思想を遺すは難しいということなのだろう。諭吉の思想は現代にどれほど残っているか。

思想を掘り起こすのは、後代の人々の想像力だ。想像力が枯れた時に、歴史は形骸と化し、思想は力を失う。想像することは一つの技法であるから、きちんと教えないと次の世代に続かない。教育とは「教える」ことではないのだ。一つは「想像を促す」ことなのだろうと思う。


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勉強なんて意味がないとか、学校が嫌いとか、本当にもったいない
自分の限られた体験や価値観をもって、学ぶ・生きることの意味を矮小化してしまっていないか
意味のある、楽しいと思える学びを始めればいいじゃないか 自分の力で



2025年11月12日



東京から九州へ、海の上


11月10日から日本全国行脚の秋バージョン。法事に呼ばれて九州・熊本へ。

今年二度目の船の旅。陸路より安いし、宿泊費も節約できる。しかも一度乗れば、目的地に着くまで、何もする必要がない。WIFIも届かないから連絡もつかないし、食事は自販機で盛りだくさんのメニューから選べるし、大きな浴場もある。周りは見知らぬ人ばかりで、気兼ねする必要もない。いうなれば "おこもり"の時間。出家の性分に合っている。

前回と同じく東京の夜景を背にして、ベイ・ブリッジを潜って洋上へ。景色を見せたくなる誰がいることは幸い也と思う。

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あいかわらず美しい黄昏の色


夕食後は、原稿執筆。『ブッダを探して』が、いよいよ最終章へ。ひと昔前の自分と比べれば、ずいぶん過去を語れるようになった。思うに以前は、自分が何者でもなく、過去がそのまま今の自分でもあったから、過去が近すぎて語るのが難しく、また下手に他人に興味を持たれたら、自分にとって大事な部分をいじくられてしまうのではないかという抵抗というか警戒のような思いがあった気がする。

だが、過去は妄想でしかないことは知り尽くしているし、他人の思いもまた妄想でしかない。そのうえ今の自分は、五十年以上生きて、それなりに大人になったし(ようやく?)、社会における立ち位置も確立できてきた気がするので、外のノイズを気にしなくてもよくなりつつある。平たく言えば、自信がついてきたといおうか(今頃?)。

自信なんて妄想の一種でしかないと重々承知しているが、多くの他者と関わらざるを得ない娑婆の世界では、大事なものを守るための防御壁みたいなものとして必要かもしれないと最近思う。

もしかしたら、この先もっと俗世と交わることになるかもしれない。その時には、今以上に、いい意味での自信というか、もう少し面の皮を厚くしておく必要があるのかもしれない。もっと鈍感でもいいように思う。

今回は、外の景色をほとんど見なかった。過去を振り返って、自分の思いの奥を探って、的確な言葉を探すことに専念した。おかげで、ずいぶん話が先に進んだ。

過去を振り返って、言葉にして、いっそうの心の自由を得る。まもなく新しい人生が始まるかもしれないこの時期に、ちょうど連載を通して過去を総ざらえするというのは、実によくできた計らいというものだ。

すべての過去を、いわば自分の外へと出してしまう。総ざらえのデトックスみたいな作業。すべての過去が、思い入れの対象ではなくなって、完全にただの記憶であり、話題の一つ程度にしかならなくなっている。

それだけ自由自在ということ。空っぽになった心を、来年からは、新たな試みをもって埋めることになる。


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東京の夜景を背に海へ



2025・11・10