あの戦争、この島の人々

8月15日 

この日が近づくと、毎年、あの戦争をめぐる映像や特集記事を目にすることが増える。

一億人もの人間が狂気を共有すれば、300万人以上の同朋を殺してもなお戦争を続けようという狂った事態にたどり着く。

目の前で肉親が殺されるのを目の当たりにしながら、なお「勝つ」という曖昧な狂気から目を醒まさない。

あの戦争は、一部の軍人たちが扇動したものという見方もあるが、実は戦争を望んでいたのは国民たちだったという指摘もある。

勝てる見込みがあるかないかよりも、その時点での風潮・空気で決めてしまう。

一度決めたら極限まで突き進む。東京大空襲で10万人、沖縄戦で20万人、広島原爆で10万人、長崎原爆で10万人。最後のわずか半年で60万人を超える死者が出た。


国の外でも内でも夥しい数の人間が殺されていたにもかかわらず、この島の人たちは戦争をやめようとせず、敗戦の放送を聞いて本気で泣いたという。

政府が敗戦を受け容れる決断をしなければ、この島の人たちはまさに玉砕覚悟、全滅するまで闘っていた可能性もなくはない。

嬉々として国が亡びることさえ受け入れる。その寸前まで進んでいた。


振り返れば理解しがたいほどの狂気。だが、深く掘り下げれば、この島国の人々の精神性というのは、当時も現代も、あるいは太古にさかのぼっても、あまり変わっていないように思わなくもない。

とりわけこの夏に考えたことは、なぜこの国の人々は、「死することをかくも簡単に美化できるのか」ということだ。

死ねば終わるだけでなく、未来への可能性も潰える。

個人の人生であれ、国であれ、同じことだ。


ところが簡単に人に死を強要し、みずからも死を選ぶ。


死という絶対的な滅びよりも、死する自分をいかに身近な者たちに見せるか、死にゆく自分をどう思ってもらえるかという、周囲の目のほうを向いている気がしてくる。

自分にとっての意味よりも、他者の視線に意味を見る。

自分の頭で思考するより、思考を放棄し、周囲に順応し、埋没してみせようとする。

個として立つよりも、人の間にうまく収まることを優先させる。

自分が望む生よりも、他人に讃えられる死を選ぶ。

周りが滅びることを選ぶなら、自分も滅びることをよしとする。


最後の最後まで自分というものを持たない、持てない精神性。


病的なまでに自分を持つことから逃避しようとする。


そういう精神性はあるのか、ないのか。


日本人という種族の心性は、未知の領域だ。



今後掘り下げてゆかねばならない課題の一つ。



2023年8月15日