自由に学べばいいんだよ 愛媛・卯之町 

※毎年開催している日本全国行脚 2023年旅の記録の抜粋です:

7月25日(火)

愛媛・卯之町を訪問。近所に展示館があったので、のぞいてみた。卯之町には江戸時代の町屋から昭和初期までの建築物が残っている。その古風な景観を町を挙げて保存しているらしい。

江戸末期から明治初期にかけての町の名士たちが年表に並んでいる。町の開業医・二宮敬作と、その弟子でありシーボルトの娘である楠本イネ。
 

私塾を開いた左氏珠山と上甲宗平。やはり(案の定)学制が敷かれる前だ。当時は教育熱心な大人たちが、持ち前の情熱ひとつで塾を開いていた。学ぶ子供たちも、受験のためではなく、純粋な向学心ゆえだ。こっちのほうが本物の学びだったように思えてならない。
 

町医者の二宮敬作は、長崎に留学して、シーボルトが開いた鳴滝塾に入ったという。同僚に高野長英や伊藤玄朴。仕送りが途絶えて、「芋をかみ、塩をおかずとして」日夜励んで、医学・植物学・物理学などを学んだという。
 

興味を引いたのは、明治期初頭の山内庄五郎。算術研究家で、四十一歳で故郷・卯之町を離れて、以後三十二年にわたって算術を勉強(修業?)するべく日本全土を行脚したそうだ。故郷に戻ってきたのは、七十三歳。運よく長生きできたから故郷に戻れたが、どこかで客死した可能性もある。当時の人は旅を恐れなかったのか。今とは旅の意味が違うかもしれない。
 

まだ体制(エスタブリッシュメント)が確立する前の時代には、こういうアウトローが、日本中にいた。彼らの原点は思いつきだ。寺子屋で最低限の教育を受けた後は、気の赴くままに我流で勉強を続け、つてを頼って人に教えを請うて、独立独歩・自主自立の生き方を貫いているうちに、たまに高いレベルの思想・事業・物・技術にたどり着いて世に遺す。そんな印象がある。
 

だから時代を越えて通用する価値を創り出した人もいれば、正直あやしい自称発明家・なんちゃって思想家みたいな人もいた。成し遂げた人と遂げきれなかった人、偉人と奇人、本物と偽物、正統と亜種が、グラデーションを成して存在することは、昔も今も変わらない。
 

だが幕末から明治期にかけてのほうが、社会が巨大な変動期にあったことも相まって、現代よりはるかに自由に、好きに学んで考えて、思いつきを即行動に移して、独自の生き方を貫いた人が多い気がしなくもない。進取と独立を、社会と時代が許容したのだろう。今より自由。いろんな可能性が胎動していた。
 

対照的に今の時代は、自由に学んで自由に生きることが、難しい。旅に出るにも、年金・税金・保険を払わねばならない。そもそも出来上がった学校教育の中では、周りに合わせてお勉強して、既成の中高・大学へと進むことを強いられる。こうしたレールをはみ出せないのは、見栄か臆病か周囲の圧力だ。
 

敷かれたレールに身の丈を合わせているうちに、知力・気力・生命力が最も溢れた二十代も、その半分を消化してしまう。成功も失敗も、しょせん狭いレールの軌道上にしかない。その外に広がる可能性の平野を好きに旅する人生は、誰も思い描かない。
 

もし私が、十代の頃の独創をもって自由に学問していたら、社会に認めてもらえないかもしれないが、まったく違う人生を生きられたように思う。社会的には、ただの奇人変人で終わったかもしれないが。

(略)

残された時間の中で何をするか。今の形が最終形ではあるまい。俗世に合わせてうまく回したところで空しいだけだからこそ、この形(出家)にたどり着いた。
 

俗の世界が善し(価値あり)とすることに興味はない。むしろ俗の世界の先をゆく、しかも俗の世界にも価値があるものを創って初めて、正しく生きたという納得が残る。何をすればいい? 最近よく考える。



愛媛・卯之町から佐田岬へ 
左上に映っているのは巨大なUFOではなく私の網代笠