豊後竹田 幸運な人(滝廉太郎)


正午あたりに豊後竹田に到着。駅のそばに滝が(落差60メートルに及ぶ落門の滝)。駅が建って景観が激変したそうだが、かつては確かに滝があり渓流があり、風光ゆたかな名所だっただろうと思わせる。

自転車をレンタル(300円)。滝廉太郎記念館へ。廉太郎は、12歳から2年半を竹田で過ごしたそうだ。

豊後竹田は、もとは岡藩の城下町で、九州の小京都といわれるほど賑わっていたという。人々は華道、茶道、三味、謡曲、仕舞、琴などの遊芸をたしなみ、木下駄で町を闊歩する。そうした人々の活気に加えて、竹林がそよぐ音や鳥のさえずり、井出(側溝)のせせらぎなど、多彩な音色が、多感な年頃の滝を刺激した。この土地での二年半が滝の音楽の原点になったことは、間違いない。

竹田の町は、岩をくりぬいた隧道(ずいどう)もあって、規模は小さいが表情は豊か。緑豊かな渓谷・丘陵に囲まれて、何かに守られているような安堵感がある。この町で過ごした廉太郎は幸運だった。

滝は大分の高校を卒業後、十五歳で東京音楽学校予科に入って、翌年に本科に進んでいる。十八で『砧』という最初の歌を発表。二十歳で主席卒業。二十二歳でドイツに留学し、ライプツィヒ王立音楽院で学ぶ。だが二か月も経たぬうちに結核にかかって入院。翌年夏にやむなく帰国。その年のうちに亡くなってしまった(享年23歳)。あまりに短い人生だが、『箱根の山』『荒城の月』などの名曲を残した。

たしかに寿命は短く、芸術は長い(中学時代の同窓生である彫刻家・朝倉文夫の言葉)。

生きた歳月の長さではなく、人の心に残る作品を遺すことで、芸術家の人生は浮かばれる。滝は『憾(うらみ)心残り』という曲を残したくらいだから、不本意ではあっただろう。だが音楽家としては幸運な人だったといっていいかもしれない。



竹田出身の画家に田能村竹田(たのむらちくでん)という人がいる。あの大塩平八郎と会って、自分の弟子(田能村直入)を大塩が主宰する塾(洗心洞)に入門させたとか。岡藩で百姓一揆があったとき「君主は仁愛を第一として百姓を処罰すべからず」という建言書を藩に提出。大塩は歴史が記す通り、飢饉で米価格が高騰した際、まず私財を投じ、打ち壊しの乱を起こして、最後は自害せざるをえなかった。

経世済民(けいせいさいみん 世を巧みに収めて民を救う)という思想を彼らは自然に選んでいた。富める者がますます富むだけの今の経済とは異なる。時を下るにつれて、人間も学問も視野が卑小化した感がなくもない。



レンタル自転車で岡城を一周。今回、初の電動自転車。ペダルに力を入れただけでクンと押してくれる感じ。坂道も軽々。子供を載せたお母さんがサドルに腰かけたままスイスイ坂道を追い越していくナゾがわかった。確かにラク。

だが出家たる者、電動であっても電源を入れずに漕ぐくらいの生き方が望ましい(笑)。「堕落じゃ、だーらーくーじゃー(※「八つ墓村のたたりじゃー」的に)と言いつつ、スイスイと漕いでしまう。

ダムの放流ルートでもある川を越え、駅の先にある佐藤義美記念館を訪問。竹田出身の童謡作家。代表作に「グッドバイ」「いぬのおまわりさん」。早稲田の文学部出身。

記念館の男性に話を聞いた。あまり人は来ない(その時は私一人)。市が運営しているから、かろうじて持っている。実は佐藤義美も、竹田の地を後にして戻ってこなかったそうだ(晩年過ごしたのは逗子桜山)。地元の人も佐藤の存在を知らなかった。市が公園計画を進めた時に、登記簿から佐藤家の土地と判明。よしみ公園と名づけた後に、秘書だった女性が私財をはたいて、佐藤の生前の家を復元。それを市に寄贈して佐藤義美記念館になったという。

平賀も、滝も、佐藤も、名を成した後に故郷に戻ったわけではない。あくまで期間限定的。故郷に背を向けていた感さえある。それでも地元の人たちは、故郷出身の偉人・有名人として記念館を立てて顕彰している。土地を愛する地元の人たちの熱量が印象的だった。


夜の川沿いを歩く 夜の底を人知れず歩く
時間が出家には合っている




2023年7月末日



自由に学べばいいんだよ 愛媛・卯之町 

※毎年開催している日本全国行脚 2023年旅の記録の抜粋です:

7月25日(火)

愛媛・卯之町を訪問。近所に展示館があったので、のぞいてみた。卯之町には江戸時代の町屋から昭和初期までの建築物が残っている。その古風な景観を町を挙げて保存しているらしい。

江戸末期から明治初期にかけての町の名士たちが年表に並んでいる。町の開業医・二宮敬作と、その弟子でありシーボルトの娘である楠本イネ。
 

私塾を開いた左氏珠山と上甲宗平。やはり(案の定)学制が敷かれる前だ。当時は教育熱心な大人たちが、持ち前の情熱ひとつで塾を開いていた。学ぶ子供たちも、受験のためではなく、純粋な向学心ゆえだ。こっちのほうが本物の学びだったように思えてならない。
 

町医者の二宮敬作は、長崎に留学して、シーボルトが開いた鳴滝塾に入ったという。同僚に高野長英や伊藤玄朴。仕送りが途絶えて、「芋をかみ、塩をおかずとして」日夜励んで、医学・植物学・物理学などを学んだという。
 

興味を引いたのは、明治期初頭の山内庄五郎。算術研究家で、四十一歳で故郷・卯之町を離れて、以後三十二年にわたって算術を勉強(修業?)するべく日本全土を行脚したそうだ。故郷に戻ってきたのは、七十三歳。運よく長生きできたから故郷に戻れたが、どこかで客死した可能性もある。当時の人は旅を恐れなかったのか。今とは旅の意味が違うかもしれない。
 

まだ体制(エスタブリッシュメント)が確立する前の時代には、こういうアウトローが、日本中にいた。彼らの原点は思いつきだ。寺子屋で最低限の教育を受けた後は、気の赴くままに我流で勉強を続け、つてを頼って人に教えを請うて、独立独歩・自主自立の生き方を貫いているうちに、たまに高いレベルの思想・事業・物・技術にたどり着いて世に遺す。そんな印象がある。
 

だから時代を越えて通用する価値を創り出した人もいれば、正直あやしい自称発明家・なんちゃって思想家みたいな人もいた。成し遂げた人と遂げきれなかった人、偉人と奇人、本物と偽物、正統と亜種が、グラデーションを成して存在することは、昔も今も変わらない。
 

だが幕末から明治期にかけてのほうが、社会が巨大な変動期にあったことも相まって、現代よりはるかに自由に、好きに学んで考えて、思いつきを即行動に移して、独自の生き方を貫いた人が多い気がしなくもない。進取と独立を、社会と時代が許容したのだろう。今より自由。いろんな可能性が胎動していた。
 

対照的に今の時代は、自由に学んで自由に生きることが、難しい。旅に出るにも、年金・税金・保険を払わねばならない。そもそも出来上がった学校教育の中では、周りに合わせてお勉強して、既成の中高・大学へと進むことを強いられる。こうしたレールをはみ出せないのは、見栄か臆病か周囲の圧力だ。
 

敷かれたレールに身の丈を合わせているうちに、知力・気力・生命力が最も溢れた二十代も、その半分を消化してしまう。成功も失敗も、しょせん狭いレールの軌道上にしかない。その外に広がる可能性の平野を好きに旅する人生は、誰も思い描かない。
 

もし私が、十代の頃の独創をもって自由に学問していたら、社会に認めてもらえないかもしれないが、まったく違う人生を生きられたように思う。社会的には、ただの奇人変人で終わったかもしれないが。

(略)

残された時間の中で何をするか。今の形が最終形ではあるまい。俗世に合わせてうまく回したところで空しいだけだからこそ、この形(出家)にたどり着いた。
 

俗の世界が善し(価値あり)とすることに興味はない。むしろ俗の世界の先をゆく、しかも俗の世界にも価値があるものを創って初めて、正しく生きたという納得が残る。何をすればいい? 最近よく考える。



愛媛・卯之町から佐田岬へ 
左上に映っているのは巨大なUFOではなく私の網代笠