鳥取・八橋 光と影

 

鳥取・八橋(やばせ)駅から歩いて海岸線まで。風が強く、白い波濤が舗道のすぐそばまで押し寄せていた。

小泉八雲と妻のセツの記念碑が立っていた。そこに記されたエピソードーー知人に送った八雲の手紙によれば、この浜辺には誰も泳いでおらず、八雲はひとり海で遊んでいたそうだ。外国人が珍しくて、地元の人たちが集まってきたことが愉快だったという。

碑文によれば、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、39歳で来日(1890年/明治23年)。島根の尋常中学校(現・松江北高校)の教師を務め、41歳でセツと結婚。彼女から聞いた話をまとめたものが、耳なし芳一をはじめとする『怪談』だ。

調べてみると、八雲は、ギリシアの小さな島で、アイルランド人のイギリス軍医補佐の父と、アラブ系の地を引くギリシア人の母の間で生まれている(1850年)。出自からして、どの国の主流階層にも属さない。異端・辺境を意識せざるを得ない境遇ではなかったか。

3歳の時に、出征から戻ってきた父と初対面。4歳の時に、母親は出産のためギリシアに里帰り。残されたハーンは、父方の叔母のもとで育てられた。幼少期も異端だったと見る。

7歳で両親が離婚。半年後に父親は再婚してインドへ。ハーンはダブリンに残って、11歳でフランスの教会学校へ。13歳にイギリスのカトリック系の全寮制学校へ。

察するに、高慢と独善に満ちたイギリス・カトリックの厳格な教育環境に、ハーンはまったくなじめなかったと思われる(ドイツのヘルマン・ヘッセ『車輪の下』と時代背景がかなり近い)。

そのせいか、パトリックというキリスト教の聖人由来の名を終生嫌ったそうだ。英語を知らない日本人に「ヘルン」と呼ばれるのが好きだったという。なんだか屈折ぶりがうかがえる。

16歳、思春期の盛りに、友だちと遊んでいる時の事故で左目を失明。同じ年に父親はマラリアで船上死。育ての叔母が投機に失敗して、カレッジを中退せざるをえなくなったのは、17歳の時。

19歳で移民船に乗り込みアメリカへ。親戚を頼って訪れたシンシナティで、印刷屋に住み込み、仕事を覚える。雇い主を、父のように慕っていたという。

地元の図書館に通って、物語を書き、ボストンの週刊誌に投稿し始める。叔母がダブリンで亡くなったが、現地の遺族に遺産を奪われ、縁を断つ(この根無し草ぶり)。寄稿を続けて、24歳で現地新聞社の正規社員に。同時に自前の週刊誌も発行している。

25歳の時、下宿先の黒人女性と結婚したが、これが州法違反に当たり解雇。その後いくつかの新聞社を転々とし、文筆で身を立てる。二十代後半には、ジャーナリストとして名を知られていたそうだ。

35歳の時にニューオーリンズの万国博覧会に来た日本人と知り合う。同時期に「古事記」の翻訳も読んでいる。37歳の時に『中国霊異談』を出版しているが、やはりハーンは、日陰に喜びを感じる心性の持ち主だったようだ。

文筆仲間の女性が日本に滞在。その体験談を聞いて血が騒いだらしく、39歳の時に急遽、日本・横浜に渡っている。通信員としての契約を破棄して、島根の学校教師に。ハーンとしてはこれ以上の果てはないというくらいの辺境だ。

世話係として雇った小泉セツと結婚。八橋を訪れたのは、その年の八月。セツの両親も引き連れて熊本に赴任(両親が島根に定着していなかったところが興味深い。セツの一族も日本社会の辺境の民だったのかもしれない。どこの出自だろう。土に還ったのはどの場所においてか)。

42歳の春に博多へ、夏には関西、山陰、隠岐を旅行。43歳で初めての子供を授かる。44歳で神戸の新聞社に就職。46歳で帰化して、小泉八雲と改名。47歳に東京帝大講師として上京。八月には焼津を毎年のように訪れていたそうだ。島育ちだから海辺が好きだったのかもしれない。

自分を斡旋してくれた知人の教授が死去して、大学内で孤立。もともとハーンは、今でいう「陰キャ」だっただろう。神経質で疑い深い。陰を好み、人を恐れる。アメリカの出版社を辞めたことも、大学に留まれなくなったことも、ハーンの陰を好む業が作用していた可能性が見える(※『影』という随筆をこの頃出版している。興味深い)。

54歳になって早稲田大学講師に。4月に『怪談』を出版。9月に心臓発作で急死。



世界の最果てともいえる日本で過ごした十余年間は、ハーンにとってやすらぎの時間だったかと最初は想像したが、生い立ちをたどってみると、やはり寂寥を抱えた居場所なき魂の持ち主だった気がしてくる。居場所がなかったからこそ、日本にたどり着いた。

片目は失明して白く濁って出っ張り、正面から写真を撮られるのを嫌がったという。右目も極度の近視で、本に顔が触れるくらいの距離でないと見えなかったとか。そのせいもあってか極度の猫背で、外国人としてはかなり小柄。熊本では、学校裏の墓地にある「鼻欠け地蔵」のそばで過ごしていたそうだ。

出自も辺境なら、容姿も異形。そんな自分を優しく受け入れてくれたセツとその家族たちも、この世に居場所のない、だが優しい人たちだったのか。妻から聞く異界の物語(民族譚・怪談)は、ハーンにとってゾクゾクと恍惚を覚えるほどの癒やしだったかもしれない。

肯定的に見れば、自分の好きを仕事につなげて、その才能を発揮して、旅するような人生を好きに生きた人といえる。だが本人の胸の内を想えば、やはりどこまで行っても、居場所がなく、心に空疎を抱えた異邦人として生きたような気もする。

幸せを見ようと思えば見られるが、薄幸といえば薄幸である。だが人生とは、そういうものだという気もする。

人間というのは、つくづく面白い。哀しいけれども美しい。

もしハーンが現代に生きていて、SNSで自身の旅を発信していたら、現代に残るハーンの怪しくも魅力的な陰影は、そのままの形で伝わったか、あるいは消失していたか、どちらだろうとふと思った。

ハーンの生きざまの面白さとせつなさは、こうした碑文からでもうかがえる。なぜ彼の人生が私の胸の内でこれほどに再現されるかといえば、それは私自身の想像力ゆえである。

もはや姿なきその人と、それを受け止める人間の想像力と。そのはざまに浮かび上がる人間の美しさは、はたしてSNSやインターネットで伝わるものだろうか。

伝える媒体によって、伝わるものの輝きや色さえ変わる。私がふと覗き見たハーンとセツの幸福は、SNSに時間を費やす現代の人には、ほぼ永久に見えないかもしれない。

見る者の心によって、見えるものは、まったく違う。ある者に見えるものが、他の者には見えず、他の者が見るものは、ある者には見えない。

さながら八橋の浜辺のようなものだ。今見えている景色は、この地にたたずむ世界でたった一人の私においてのみである。


ハーンとセツも振り返ったであろう八橋の浜辺


2023年10月20日