次に挑むことがあるとすれば

 

(旅の道中で考えたこと)


大人になると、十代までの体験を忘れてしまう人も少なくない。だがそれは、生活に追われて思い出す余裕がないだけで、心の底には刻み込まれているはずだ。人生の最初期に刻み込んだ原体験を、作品や思想・事業へと昇華させた人たちが、芸術家や思想家というのだ。

彼らは、子供の頃の体験と、大人になってからの活動とを、運良くつなげることができた人たちといっていい。不幸なことに、二つの時期を分断されてしまった人たちは、日々の仕事や義務に追われて、子供の頃に得た宝を忘れてしまう。いわゆる大人である。

理想の教育とは、十代のうちに美しいもの・良質なものを体験したうえで、その体験を表現・事業・活動を通して、社会的に価値あるものへとつなげる(昇華させる)ことを可能にするものだ。理想の成長であり、自己実現を可能にするもの。

子供時代と大人時代とがつながることが理想であって、分断されるのは不幸だ。だが現実は、せっかく子供の頃に良い体験をしても、その後の学校教育や受験・就職、社会が強いる義務によって、分断(スポイル)されてしまうことが少なくない。子供時代に得たものを忘れることが大人になることだ。そう半ば本気で思い込んでいる大人もいる。

人生という軌道から、なるべく分断(スポイル)をなくすことだ。継ぎ目のほころびをつなぐこと。欠落を埋めること。子供の頃の体験が、そのまま大人になった後の活動につながっていくくらいの一貫性を作り出せないものか。

私の場合は、二歳から始まって小学校卒業までが、原体験。だが中学でスポイルされかけた。あのまま潰されていたら、つまらぬ大人になり果てていただろう。東京で一人学んだ時期が、第二の原点。その頃に培った教養と思想が、今に生きている(見事に生きている。あの時期がなければ、今の活動も著作も成り立たない)。

だが大学に入って再び壊されかけた。十代までの良質な体験をみずから全否定して、再びつまらぬ大人になりかけた。せっかく生きた道のりを守りたい衝動と、過去のすべてを捨てて何も考えない大人の一人になりたいという自暴自棄。

その両者の葛藤を長いこと経験して、やむなくぜんぶ、つまりは自分を丸ごと捨てて出家してみて、価値ある経験と技術と思想だけをつなぐことができた(正直、捨てた・忘れたまま戻ってきていないものもある。その量も膨大だ。あの頃に得た知識・技術・思想・意欲をすべて取り戻せたらとも思うが、致し方ない)。

幼い頃の体験を腐らせず損なわせることなく、その延長に社会的に価値を持つものを形にする。それができる状況になりつつある。面白いことに、やはり気が向くのは教育である。

自己を表現すること、個人における創造は良し(形になった)。次は・・・・・といえば、やはり教育だと思えてくる。子供時代と大人時代を、良質にして純粋な体験を、社会的に価値ある仕事・事業・活動へとつなげることを可能にする教育だ。

年齢や学年という概念にとらわれず、最初から良質なものを、生涯使える普遍的な知識と知的技法を授ける教育。

本気で考えてみようかと思わなくもない。



2023年8月



あの戦争 この島の人々

2023年8月15日 

この日が近づくと、毎年、あの戦争をめぐる映像や特集記事を目にすることが増える。

一億人もの人間が狂気を共有すれば、300万人以上の同朋を殺してもなお戦争を続けようという狂った事態にたどり着く。

目の前で肉親が殺されるのを目の当たりにしながら、なお「勝つ」という曖昧な狂気から目を醒まさない。

あの戦争は、一部の軍人たちが扇動したものという見方もあるが、実は戦争を望んでいたのは国民たちだったという指摘もある。

勝てる見込みがあるかないかよりも、その時点での風潮・空気で決めてしまう。

一度決めたら極限まで突き進む。東京大空襲で10万人、沖縄戦で20万人、広島原爆で10万人、長崎原爆で10万人。最後のわずか半年で60万人を超える死者が出た。


国の外でも内でも夥しい数の人間が殺されていたにもかかわらず、この島の人たちは戦争をやめようとせず、敗戦の放送を聞いて本気で泣いたという。

政府が敗戦を受け容れる決断をしなければ、この島の人たちはまさに玉砕覚悟、全滅するまで闘っていた可能性もなくはない。

嬉々として国が亡びることさえ受け入れる。その寸前まで進んでいた。


振り返れば理解しがたいほどの狂気。だが、深く掘り下げれば、この島国の人々の精神性というのは、当時も現代も、あるいは太古にさかのぼっても、あまり変わっていないように思わなくもない。

とりわけこの夏に考えたことは、なぜこの国の人々は、「死することをかくも簡単に美化できるのか」ということだ。

死ねば終わるだけでなく、未来への可能性も潰える。

個人の人生であれ、国であれ、同じことだ。


ところが簡単に人に死を強要し、みずからも死を選ぶ。


死という絶対的な滅びよりも、死する自分をいかに身近な者たちに見せるか、死にゆく自分をどう思ってもらえるかという、周囲の目のほうを向いている気がしてくる。

自分にとっての意味よりも、他者の視線に意味を見る。

自分の頭で思考するより、思考を放棄し、周囲に順応し、埋没してみせようとする。

個として立つよりも、人の間にうまく収まることを優先させる。

自分が望む生よりも、他人に讃えられる死を選ぶ。

周りが滅びることを選ぶなら、自分も滅びることをよしとする。


最後の最後まで自分というものを持たない、持てない精神性。


病的なまでに自分を持つことから逃避しようとする。


そういう精神性はあるのか、ないのか。


日本人という種族の心性は、未知の領域だ。



今後掘り下げてゆかねばならない課題の一つ。



2023年8月15日




あの戦争、この島の人々

8月15日 

この日が近づくと、毎年、あの戦争をめぐる映像や特集記事を目にすることが増える。

一億人もの人間が狂気を共有すれば、300万人以上の同朋を殺してもなお戦争を続けようという狂った事態にたどり着く。

目の前で肉親が殺されるのを目の当たりにしながら、なお「勝つ」という曖昧な狂気から目を醒まさない。

あの戦争は、一部の軍人たちが扇動したものという見方もあるが、実は戦争を望んでいたのは国民たちだったという指摘もある。

勝てる見込みがあるかないかよりも、その時点での風潮・空気で決めてしまう。

一度決めたら極限まで突き進む。東京大空襲で10万人、沖縄戦で20万人、広島原爆で10万人、長崎原爆で10万人。最後のわずか半年で60万人を超える死者が出た。


国の外でも内でも夥しい数の人間が殺されていたにもかかわらず、この島の人たちは戦争をやめようとせず、敗戦の放送を聞いて本気で泣いたという。

政府が敗戦を受け容れる決断をしなければ、この島の人たちはまさに玉砕覚悟、全滅するまで闘っていた可能性もなくはない。

嬉々として国が亡びることさえ受け入れる。その寸前まで進んでいた。


振り返れば理解しがたいほどの狂気。だが、深く掘り下げれば、この島国の人々の精神性というのは、当時も現代も、あるいは太古にさかのぼっても、あまり変わっていないように思わなくもない。

とりわけこの夏に考えたことは、なぜこの国の人々は、「死することをかくも簡単に美化できるのか」ということだ。

死ねば終わるだけでなく、未来への可能性も潰える。

個人の人生であれ、国であれ、同じことだ。


ところが簡単に人に死を強要し、みずからも死を選ぶ。


死という絶対的な滅びよりも、死する自分をいかに身近な者たちに見せるか、死にゆく自分をどう思ってもらえるかという、周囲の目のほうを向いている気がしてくる。

自分にとっての意味よりも、他者の視線に意味を見る。

自分の頭で思考するより、思考を放棄し、周囲に順応し、埋没してみせようとする。

個として立つよりも、人の間にうまく収まることを優先させる。

自分が望む生よりも、他人に讃えられる死を選ぶ。

周りが滅びることを選ぶなら、自分も滅びることをよしとする。


最後の最後まで自分というものを持たない、持てない精神性。


病的なまでに自分を持つことから逃避しようとする。


そういう精神性はあるのか、ないのか。


日本人という種族の心性は、未知の領域だ。



今後掘り下げてゆかねばならない課題の一つ。



2023年8月15日




滋賀大津「4メートルの壁」の意味

福岡のとある場所で花火大会があると聞いた。旅の途中で近くに来ていたので出かけてみた。

地元の人向けに小学校の校庭に席を設けている。見物客たちは、めいめい近くの道を歩いて、空いたところに座って、花火が始まって場所に飽きたら別に移るというゆるやかな姿。訪問者数が少ない花火大会だから、こういうことができる。最も素朴で自然な姿。

1時間を4枠に分けて、それぞれの枠の花火を打ち上げる前に、スポンサー企業の名前を読み上げる。「○○町の未来のために」とアナウンス。ちゃんと地元・地域のことを考えている。そして地元企業がお金を出し合って、地元の人が平等に楽しめる夏の風物詩を作り上げている。これが理想の姿だろう。

 * * *

後日聞いた話だが、滋賀大津の花火大会は、有料観覧席を囲む形で高さ4メートルの壁を作って、地元の人さえ花火を見られない形にしたという。費用の高騰(2年前の1.5倍。一万発で約3億円)と「混雑・事故防止のため」というそれらしく聞こえる理由づけである。

だがこの形を取ってしまうと、地元の人たちさえお金を払わなければ見られない。今や全国の花火大会の75%が有料席を設置しているそうだが、平均で5000円弱。一人数万円取るところも。今回の琵琶湖花火は一席2万5千円。花火ではないが阿波踊りでは一人20万円で特別観覧席を売った(しかも完売)そうだ。

お金の有無で見る者たちに区別をつける。この傾向には、深刻な問題が潜んでいる。どこが問題か言葉にしてみよう。特に花火大会。

まず、花火大会は、そもそも自然の中で打ち上げるもの。来た人のすべてが見て楽しむことを前提として発展してきたはずだ。誰もが見ることができる、というのが、当たり前の姿。

いわば公共財みたいなもの。純粋な夏の風物詩。地元の人なら家の窓からでも楽しめる。花火があるからと遠くから足を運ぶ人もいる。友だち同士、恋人同士、家族づれ、あるいは一人でも、ひと夏の美しい光の花を楽しみたい人がやってくる。

見ることにお金がかからない、かつ人を選ばない(排除しない)というのが、本来の花火大会の姿だ。もちろん花火にはお金がかかる。規模によっては設営や警備や清掃などで人を頼らねばならないことになる。そのコストをどうするか。

みんなが楽しめる花火大会という趣旨に協賛する企業がスポンサーになる。あるいは地域の文化行事として自治体・行政が支出する(もとは地元民の税金だ)。

もしそれだけでは費用をまかなえないという事態になったら、どうするか。有料席を設けるのは一つの案だ。だがあまりに高くすれば、公共財としての性質を保てなくなる。
 
一案としては過剰に負担にならないくらいの額を設定して「協賛料」として広く協力してもらう。観覧費あるいは募金。花火見物に来る人たちみなに広く、ただし薄く(低く)協力してもらうという形はあっていい。

こうしたスポンサー枠を広げて、協力してくれた人たちにポストカードや花火をあしらえた栞(しおり)を進呈するとか。そうした方針の延長に有料席を用意することも、選択肢としてはありうる。

だがそもそも花火を打ち上げる場所は地域のもので、地域を支えているのは地元住民だ。だから地元の人には優先的に無料あるいは定額の観覧席を用意してもいい。

要するに、誰もが楽しめる夏の風物詩を維持するために必要な費用をどうやってまかなうか。これは「工夫」の問題なのだ。

企業の協賛や自治体の支出でまかないきれないなら、花火大会の公的な意味(みんなが共有できる価値)を唱えて、「応援する人たち」の数を増やす工夫をするか。それが筋というものだ。

 * * *

こうした地域の行事(公共性)を大事にしようという発想の延長には、「排除」(締め出す)という選択は出てこない。どこかの私人が私的所有地で花火の興行をして、見世物として「売る」なら話は別だ。
 
だが、地域の共同財産である湖や川や野山を使って、そもそも広く見せることを前提とした催しにおいて、「見せない」という選択を取ることは、根本的に間違いだ。

夏の花火が持つ意味が、「公」(おおやけ:みんなにとっての利益)ではなく、「私」(わたくし:自分だけの利益)へと、変質してしまうからだ。

高額な金を払う人間だけが見ることができる。お金を出さない・出せない人には一切見せない――こうした「排除」の仕組みを、公を担うはずの自治体や主催団体が簡単に取ってしまう。

これは、地域行事の質を根底から変えてしまう、きわめて重大な問題だ。

本来、誰もが享受できるはずの公の行事に、安易に「排除」を持ち込めばどうなるか。同じ地域に暮らす人さえ、見る者と見ることができない者の間に「分断」が生じる。

これは「区別」ではない。区別は、合理的な目的と理由があるものだが、公共性を持つ地域の花火大会に「排除」を持ち込むことは、合理的ではない。地域行事の目的はそもそも「公」であって「私」ではないからだ。

かつて当たり前のように見られた花火が、地元の人であっても見られない。

そんな地域に信頼や愛着を持てるはずもない。


地域の行事に協力し合う人たちがいて、そういう催しを純粋に楽しみ、また催しに参加する中で地域への愛着を育てていくなら、その中で育った子供が大人になった後に、その地域に留まろう・地域に貢献しようと思うかもしれない。

だが、カネを払うかどうかで分断し「排除」するような自治体・地域なら、地元の人たちが愛着を持てるはずもなく、また遠方から足を運ぶ人は確実に減る。

年に一度の催しだからこそ、遠くから足を運ぶ人もいる。地域の名を覚えてもらう(「あの〇〇」というイメージ)だけでなく、そのイメージを未来につなげる仕組み・仕掛けをどう作るか、智慧を磨く機会にもなる。

未来につながる機会として最大限活かせばいいのに、カネを払った人間だけが楽しめる「見世物」にしてしまおうというのだ。高額な見物料を払って満足して帰っていくだけの人たちが、その地域に何を残してくれるというのだろう。

他方、締め出された人間たちの不信・不満は、確実に残り、大きくなる。
 
「4メートルの壁」は、地域にとって、行政にとって、主催者、そして地元の政治家たちにとって、致命的な選択ミスだ。地域のため・住民たちのためという根本を掘り崩すものだからだ。

重ねて言うが、「公」と「私」はまったく違う。「公」は、みんなのため。みんなのために貢献し協賛する個人・企業をきちんと讃える。その成果は、なるべく多くの人が平等に享受できる。

そうした「みんなのため」が伝わるからこそ、人々はその地域・社会に感謝もするし、愛着も持つ。誇りも持てる。


今回、花火大会に「排除」を持ち込んだ人たち(特に首長)は、地元民だけでなく、「行ってみようか」と思う多数の人たちを、カネの有無で区別し、分断させたことを、深刻に受け止めるほうがいいように思う。地域の未来を左右することだから。

花火大会というのは、ただの見世物ではない。「公」を支える使命の一環でもある。公を安易に掘り崩せば、地域というコミュニティが崩落していく。
 
人を失い、未来を潰す。当事者が思う以上に、失うものは甚大かもしれないのである。

花火はみんなのため--その根幹を支えるために、どれだけの人に応援を求めるか。
 
「みんなで支える」ことに全力を尽くすほうがよい。最後まで。

公(おおやけ)を守り抜くことだと思う。まだまだできることはある。


大人も子供もみんな楽しめる花火を守ること
排除という視野狭窄は社会を壊し未来を潰す





旅の終わりに想うこと(2023全国行脚完遂)


今年の全国行脚、ある場所で参加者がこんなことを言っていた。世の中はこんな状況で、この先もっと悪くなるかもしれない。こういう現実の中で子供を産んで育てることに意味があるのか、ふと考えることがあると。

気持ちは痛いほどわかる気がする。実際に、世界がこんな状況だから、子供を持たないほうがいい、社会がこんなに生きづらいのだから結婚しないほうがいい、という人はいる。

だが人間として何が正しい生き方か。まずは命をまっとうすることだ。その上にどれほどの満足を載せることができるかという問いが来る。人間もまた生命である以上は、誰かと結ばれて、子供を育てて、未来へとつなげていくことが、普遍的に価値あることだ。その前提が維持されて初めて、個人の選択(自由と多様性)が可能になる。

今は、多様性の時代だと言われる。結婚するか、子を持つかは、個人の自由。性差さえ主観によって選んでいい。いわば自分の心が選ぶことこそが正解だという、そんな価値観の変動が起きている。

それは一面では価値あることだし、社会における正解としてよい部分もあるとは思う。だが、未来がどうなるかわからないから、現実にこれだけの悲観すべき理由があるから、結婚しない、子も持たないと考えるのは、少し違う気がする。

命の本来の姿は、時代や社会のあり方に関わりなく、人が人を信じ、子を育てて、未来につなげていくことにあると思えてくるからだ。

多様性をいうなら、結婚してもしなくても生き方として尊重されるべきだし、結婚しないカップルが子を持つこと、あるいは人の子を養うことも、同じように認められていい。そういう「親」を社会がサポートする体制があってもいい。

変化を拒む社会・価値観が硬直した社会が、結婚しづらい、子育てしづらい環境を作っているだけであって、だからといって結婚しない、子を持たないことが、時代の趨勢だとか、多様性がもたらすライフスタイルだと考えることは、若干筋が違うように思う。

結婚することを、そんなに難しくしては本来いけないはず。子を育てることも、さほど難しいことではないはずなのだ。生き物なら、みな当たり前のようにやっている。

子供には衣食住を親または社会が保証して、最低限の教育を与えて、その後は何かひとつ仕事をしてもらって、生涯生きていけるだけのサポートを国が受け持つ。これがそんなにも難しいことなのだろうか。

難しくしている理由は、結婚や子育てという営みそのものにあるのではなく、人間が必要以上に難しくしている部分があるような気がする。みずから難しく考え、また人にも難しさを強いている。

難しくしているのは、人間の意識(心の持ちよう)だ。人と結ばれ、子を育てるという本来シンプルな営みが難しくしているわけではない。何が本当の原因かが見えてない可能性はないか。これもこの国を覆う思考放棄の産物ではなかろうか。

特に子育てに決まった答えがあるはずもない。人は時間が過ぎれば大人になる。その時に、この世界でひとつ働きを果たして生きていくだけである。

それができるなら、教育さえそこそこでよい。小中を義務教育と定めるなら、それ以降は、それこそ、いつの時点で仕事を引き受けるか、世の中のどこでどんな役割を果たすかは、個人の選択の問題だ。まさに自由であり多様であるべきもの。

本当はそれくらいに子育てに求めるものを緩く、ハードルを低くしてもよいはずなのである。

重くしているのは何か、誰か。この社会に生きる人間に他ならない。

親がどんな人間であれ、とりあえず独り立ちするまでなんとか面倒を見ることで、親の務めは果たしたことになる。あとは本人次第。親が過ちを犯したからとて、子供がいつまでも責めることは反則というものだし、親もまたいつまでも子供を追いかけることは、間違いである。

親たる仕事は、期間限定のお務めだ。これもまた命本来の姿。普遍的な生命界のルールである。

人は大人になり、働いて、生きられるだけ生きていく。それだけで十分だ。その中で命としての務めを果たす。結婚できるならしてみる、育てられるなら育ててみる。

体験すること自体に価値がある。成功せねばと思いつめる必要があるだろうか。思いつめていないか。

育つ、働く、生きる、結ばれる、育てる――そうした当たり前の営みを、当たり前のこととして続けていくのが、命本来の姿ではないか。社会の状況がどうだとか、未来がどうなるかといったことは、こうした命本来の姿の「次」の問題だ。

 

たしかに困難はあるし、危機は急速に増えているのかもしれないが、「命として自然になすべきこと」を左右するものではない。命本来の営みを、外の世界のあり方を理由に左右させること自体が、本末転倒なのかもしれない。

 

こうしたことを言うと、個人の選択を尊重しないのかとか、結婚できない人・子供を持てない人もいるではないかと考える人もいるだろう。無論そういうことではない。

人それぞれにどう生きるかは自由に選べばよいことだとしても、命としてごく自然な営みをまっとうできる人は、臆せずに、未来を恐れずに、堂々と生きて、めぐり会った人と生きて、子を育て、未来へと送り出す。それは議論無用の価値あることだというまでである。

結婚しない、子を持たない人生を生きる人は、その人生をまっとうすればいい。人と同じ生き方をせねばと考える必要はなく、また自分と同じ生き方を他人に期待する(同調を求める)ことも間違いだ。

生きることの中身は、同じでなくていい。いかなる生き方も正しいのである。

他人の生き方を否定することも、羨むことも、また自分の人生を否定したり卑下したりすることも、しなくていい。堂々とおのれの人生を生きればいいのである。

さまざまに生きる人々の中で、もし自分がほんの少しでも「未来につなぐ」という意識を持てるなら、自分にできる範囲で、未来につなぐ営みに参加すればいい。

「子供・子育てに寛容になる」ことは、最初の一歩。ボランティアで子供たちに関わることも一つだろうし、ほんの少し財産を提供することも、自分亡き後に寄付することもありだ。

ちなみに仏教では、物に限らず、言葉やふるまいや、それこそ微笑みだけでも、「与える」ことに含まれる。与えることが荷が重いと感じる人は、「未来につなぐ」という価値を知っているだけでもいい。

自分の人生に並べて、「この世界の未来」というもう一つの価値を理解することだろうと思う。

自分が生きることは、この世界を支えること。仕事のあるなしに関わらず、生きるという事実が世界を作る。生きるだけでこの世界を支えているという真実は忘れないようにしたい。

自分が生き抜くことで世界を支え、その事実が未来へとつながっていく。未来につなぐという意識を持って、人を苦しめることなく、生きられる限りは生きていく。

それだけで十分に意味がある。人はその事実を「人間の尊厳」と呼んでいる。


世の中にはいろんな考え方があるが、考えすぎるには及ばない。真実はシンプルなものだ。

世界がどんな状況であれ、未来がどのようになるにせよ、自分自身が精一杯生きること。

正しい(≒苦しみを増やさない)生き方を貫くこと。

未来につなげようという意識を持つ。

できる範囲で役割を果たす(生き抜くだけで役割を果たしているという真実も含む)。


それが、一人一人が選び取るべき最終的な答えということになる。

人は生きるだけであり、未来を育てるだけだ。

生きるという営みに、ためらいも否定も迷いもいらない。

 

まっすぐに生きて、育てて、命を完遂するのみである。


日本全国行脚2023完遂

草薙龍瞬

世界はまだ輝いているぞ

 

2023・8・6