滋賀大津「4メートルの壁」の意味

福岡のとある場所で花火大会があると聞いた。旅の途中で近くに来ていたので出かけてみた。

地元の人向けに小学校の校庭に席を設けている。見物客たちは、めいめい近くの道を歩いて、空いたところに座って、花火が始まって場所に飽きたら別に移るというゆるやかな姿。訪問者数が少ない花火大会だから、こういうことができる。最も素朴で自然な姿。

1時間を4枠に分けて、それぞれの枠の花火を打ち上げる前に、スポンサー企業の名前を読み上げる。「○○町の未来のために」とアナウンス。ちゃんと地元・地域のことを考えている。そして地元企業がお金を出し合って、地元の人が平等に楽しめる夏の風物詩を作り上げている。これが理想の姿だろう。

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後日聞いた話だが、滋賀大津の花火大会は、有料観覧席を囲む形で高さ4メートルの壁を作って、地元の人さえ花火を見られない形にしたという。費用の高騰(2年前の1.5倍。一万発で約3億円)と「混雑・事故防止のため」というそれらしく聞こえる理由づけである。

だがこの形を取ってしまうと、地元の人たちさえお金を払わなければ見られない。今や全国の花火大会の75%が有料席を設置しているそうだが、平均で5000円弱。一人数万円取るところも。今回の琵琶湖花火は一席2万5千円。花火ではないが阿波踊りでは一人20万円で特別観覧席を売った(しかも完売)そうだ。

お金の有無で見る者たちに区別をつける。この傾向には、深刻な問題が潜んでいる。どこが問題か言葉にしてみよう。特に花火大会。

まず、花火大会は、そもそも自然の中で打ち上げるもの。来た人のすべてが見て楽しむことを前提として発展してきたはずだ。誰もが見ることができる、というのが、当たり前の姿。

いわば公共財みたいなもの。純粋な夏の風物詩。地元の人なら家の窓からでも楽しめる。花火があるからと遠くから足を運ぶ人もいる。友だち同士、恋人同士、家族づれ、あるいは一人でも、ひと夏の美しい光の花を楽しみたい人がやってくる。

見ることにお金がかからない、かつ人を選ばない(排除しない)というのが、本来の花火大会の姿だ。もちろん花火にはお金がかかる。規模によっては設営や警備や清掃などで人を頼らねばならないことになる。そのコストをどうするか。

みんなが楽しめる花火大会という趣旨に協賛する企業がスポンサーになる。あるいは地域の文化行事として自治体・行政が支出する(もとは地元民の税金だ)。

もしそれだけでは費用をまかなえないという事態になったら、どうするか。有料席を設けるのは一つの案だ。だがあまりに高くすれば、公共財としての性質を保てなくなる。
 
一案としては過剰に負担にならないくらいの額を設定して「協賛料」として広く協力してもらう。観覧費あるいは募金。花火見物に来る人たちみなに広く、ただし薄く(低く)協力してもらうという形はあっていい。

こうしたスポンサー枠を広げて、協力してくれた人たちにポストカードや花火をあしらえた栞(しおり)を進呈するとか。そうした方針の延長に有料席を用意することも、選択肢としてはありうる。

だがそもそも花火を打ち上げる場所は地域のもので、地域を支えているのは地元住民だ。だから地元の人には優先的に無料あるいは定額の観覧席を用意してもいい。

要するに、誰もが楽しめる夏の風物詩を維持するために必要な費用をどうやってまかなうか。これは「工夫」の問題なのだ。

企業の協賛や自治体の支出でまかないきれないなら、花火大会の公的な意味(みんなが共有できる価値)を唱えて、「応援する人たち」の数を増やす工夫をするか。それが筋というものだ。

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こうした地域の行事(公共性)を大事にしようという発想の延長には、「排除」(締め出す)という選択は出てこない。どこかの私人が私的所有地で花火の興行をして、見世物として「売る」なら話は別だ。
 
だが、地域の共同財産である湖や川や野山を使って、そもそも広く見せることを前提とした催しにおいて、「見せない」という選択を取ることは、根本的に間違いだ。

夏の花火が持つ意味が、「公」(おおやけ:みんなにとっての利益)ではなく、「私」(わたくし:自分だけの利益)へと、変質してしまうからだ。

高額な金を払う人間だけが見ることができる。お金を出さない・出せない人には一切見せない――こうした「排除」の仕組みを、公を担うはずの自治体や主催団体が簡単に取ってしまう。

これは、地域行事の質を根底から変えてしまう、きわめて重大な問題だ。

本来、誰もが享受できるはずの公の行事に、安易に「排除」を持ち込めばどうなるか。同じ地域に暮らす人さえ、見る者と見ることができない者の間に「分断」が生じる。

これは「区別」ではない。区別は、合理的な目的と理由があるものだが、公共性を持つ地域の花火大会に「排除」を持ち込むことは、合理的ではない。地域行事の目的はそもそも「公」であって「私」ではないからだ。

かつて当たり前のように見られた花火が、地元の人であっても見られない。

そんな地域に信頼や愛着を持てるはずもない。


地域の行事に協力し合う人たちがいて、そういう催しを純粋に楽しみ、また催しに参加する中で地域への愛着を育てていくなら、その中で育った子供が大人になった後に、その地域に留まろう・地域に貢献しようと思うかもしれない。

だが、カネを払うかどうかで分断し「排除」するような自治体・地域なら、地元の人たちが愛着を持てるはずもなく、また遠方から足を運ぶ人は確実に減る。

年に一度の催しだからこそ、遠くから足を運ぶ人もいる。地域の名を覚えてもらう(「あの〇〇」というイメージ)だけでなく、そのイメージを未来につなげる仕組み・仕掛けをどう作るか、智慧を磨く機会にもなる。

未来につながる機会として最大限活かせばいいのに、カネを払った人間だけが楽しめる「見世物」にしてしまおうというのだ。高額な見物料を払って満足して帰っていくだけの人たちが、その地域に何を残してくれるというのだろう。

他方、締め出された人間たちの不信・不満は、確実に残り、大きくなる。
 
「4メートルの壁」は、地域にとって、行政にとって、主催者、そして地元の政治家たちにとって、致命的な選択ミスだ。地域のため・住民たちのためという根本を掘り崩すものだからだ。

重ねて言うが、「公」と「私」はまったく違う。「公」は、みんなのため。みんなのために貢献し協賛する個人・企業をきちんと讃える。その成果は、なるべく多くの人が平等に享受できる。

そうした「みんなのため」が伝わるからこそ、人々はその地域・社会に感謝もするし、愛着も持つ。誇りも持てる。


今回、花火大会に「排除」を持ち込んだ人たち(特に首長)は、地元民だけでなく、「行ってみようか」と思う多数の人たちを、カネの有無で区別し、分断させたことを、深刻に受け止めるほうがいいように思う。地域の未来を左右することだから。

花火大会というのは、ただの見世物ではない。「公」を支える使命の一環でもある。公を安易に掘り崩せば、地域というコミュニティが崩落していく。
 
人を失い、未来を潰す。当事者が思う以上に、失うものは甚大かもしれないのである。

花火はみんなのため--その根幹を支えるために、どれだけの人に応援を求めるか。
 
「みんなで支える」ことに全力を尽くすほうがよい。最後まで。

公(おおやけ)を守り抜くことだと思う。まだまだできることはある。


大人も子供もみんな楽しめる花火を守ること
排除という視野狭窄は社会を壊し未来を潰す